2023年5月24日水曜日

ラッシャー木村



5月24日は、プロレスラーのラッシャー木村の命日です。2010年5月24日没。68歳。

ラッシャー木村(ラッシャーきむら / Rusher Kimura、1941年6月30日 - 2010年5月24日)は、日本のプロレスラー、元大相撲力士。本名:木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。

後期のエースを務めた国際プロレスでは「金網デスマッチの鬼」の異名を持つブルファイターとして活躍し、新日本プロレス参戦時は国際軍団の総帥としてアントニオ猪木と抗争を繰り広げ、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。

2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。

佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。

1958年3月場所にて、木ノ村(きのむら)の四股名で初土俵を踏む。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。

大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でデビューする。

豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。

1981年10月、国際の解散に伴い、残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は国際のメンバーは新日本に参戦し、新日本対旧国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択した為、最終的に新日本に登場した選手は木村、浜口、寺西の3人だけとなった。1981年9月23日、田園コロシアム大会に来場し、メインイベント前に決意表明を示す場を与えて貰ったが、木村の真面目な性格によって「こんばんは事件」が発生。この出来事が「マイクの鬼」と呼ばれ、マイク・パフォーマンスが代名詞となるきっかけになった。

馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛から、プロレスリング・ノアに旗揚げメンバーとして参加。

2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが、最晩年にはまったく攻撃をしないまま、マイクパフォーマンスのみで終わる試合もあるなど精彩を欠き、2003年3月1日の武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。

2004年7月10日、体調の悪化と「これ以上関係者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明。以降、公の場から姿を消した。

2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。68歳没。関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという。

引用元:ラッシャー木村 - Wikipedia











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