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2025年2月11日火曜日

松岡きっこ



2月11日は、女優・タレントの松岡きっこ(まつおか きっこ)の誕生日です。1960年代から女優活動をしており、その合間を縫ってバラエティ番組やグラビアなどをこなし、そのエキゾチックな佇まいで人気となった。1981年に俳優の谷隼人と結婚、おしどり夫婦として知られる。

松岡 きっこ(まつおか きっこ、1947年〈昭和22年〉2月11日 - )は、日本の女優、タレント、司会者。本名は岩谷 紀公子(いわたに きくこ)、旧姓は松岡。

東京都出身。池坊短期大学卒業。テアトル・ド・ポッシュ、ノンプロを経て、グッドフェローズに所属。

夫は俳優の谷隼人。3人姉弟の長女(妹1人、弟1人)。身長158cm。B85cm、W58cm、H87cm(1968年8月)(1969年7月)。

幼少の頃より劇団若草に在籍、子役として活躍。1958年、東映児童演技研修所に入所。1963年、和光学園高等部1年在学中に東映大作『武士道残酷物語』のさと役を探していた今井正監督に見出され初めて大役をつかんだ。さとの許婚、野田数馬役の山本圭も初の大役。その後『吸血髑髏船』やクレージーキャッツの映画などに出演。男性誌のグラビアでは水着で巨乳を披露し、在日米陸軍である星条旗新聞社発行の新聞に美貌の日本人女性として写真入りで紹介されたことがある。レギュラー出演した『アイフル大作戦』と続編の『バーディー大作戦』では、それまでエキゾチックな美女を演じることが多かったのとは対照的にコミカルな演技を見せている。女優業の合間に『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』『11PM』『スター家族スタジオ』や、司会者として『シャボン玉こんにちは』などのバラエティ番組にも出演してきた。1969年7月の新聞に松竹所属と記載されている。

1981年に、ドラマで共演していた谷隼人(当時は「岩谷隆広」に改名していた)と結婚。以後、女優業を休業するが、バラエティー・旅番組に「おしどり夫婦」として出演。全日本女子プロレス中継の解説では「女子プロレスの母」とも呼ばれていた。

現在では通販番組に多数出演している。

特技は日本舞踊、ゴルフ。

引用元:松岡きっこ - Wikipedia
























谷隼人と松岡きっこ



2024年6月10日月曜日

フランキー堺



6月10日は、俳優・コメディアン・ドラマー・司会者のフランキー堺(フランキーさかい)の命日です。1996年6月10日没。67歳。

フランキー堺(フランキーさかい、(1929年〈昭和4年〉2月13日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、日本のコメディアン、俳優、ジャズドラマー、司会者。

鹿児島県鹿児島市出身。本名は堺 正俊(さかい まさとし)。慶應義塾大学法学部卒業。

大学時代から進駐軍のキャンプでバンド「シックスレモンズ」のジャズ・ドラマーとして演奏し、芸能界へ進む。芸名のフランキーは、進駐軍相手に演奏を行うため通りがいいように名付けた。1954年にフランキー堺とシティ・スリッカーズを結成して、スパイク・ジョーンズをまねた冗談音楽を演奏。築地のクラブで演奏していると、俳優伴淳三郎と知り合い、念願の役者へ。

後に映画へ進出し、『幕末太陽傳』や『駅前シリーズ』などに出演。幕末太陽傳での左平次の演技が決定打となって、1957年のブルーリボン賞主演男優賞を受賞する。ブルーリボン賞受賞の弁では「今撮影している映画(『母三人』1958年公開)は、笑わせ役者から泣かせ役者に踏み出す第一歩です」と抱負を語った。

BC級戦犯の悲劇を描いた『私は貝になりたい』、人情派検事の奮闘を描いた『赤かぶ検事奮戦記』などの社会派ドラマ、『モスラ』や『世界大戦争』などの特撮まで幅広く活躍した。『モスラ』の監督を務めた本多猪四郎は堺の演技について、熱心に役に取り組んでおり非常にやりやすかったと述べている。

朝日放送のクイズ番組『霊感ヤマカン第六感』では野末陳平の後任として2代目司会者を務め、軽妙かつ温厚な司会ぶりで視聴者に親しまれた。

落語家の8代目桂文楽に入門しており、噺家として桂文昇の名を持っていた。

1967年から大阪芸術大学で演劇論を講じ、1974年より大阪芸術大学舞台芸術学科の教授に就任し学科長も務めた。1994年に紫綬褒章を受章。

1996年6月7日未明に大阪市のホテルで吐血して緊急入院、6月10日午後11時2分、肝不全のため東京都港区の済生会中央病院で死去した。67歳没。

引用元:フランキー堺 - Wikipedia

















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