ラベル ぶらり途中下車の旅 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ぶらり途中下車の旅 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月25日日曜日

藤村俊二



1月25日は、俳優・タレント・振付師の藤村俊二(ふじむら しゅんじ)の命日です。お笑い系のバラエティや俳優などタレント活動なども行っていたが振付師などの才能も持つ。長らく細身に黒髪のアフロヘアーがトレードマークだったが、56歳のときに胃癌で胃を全摘出してからは毛染めをやめ、白髪と白い口ひげがトレードマークとなった。本人によると、もともと振付師志望であったが、番組中にエキストラ出演を頼まれることが多く、画面に映るのが嫌でその場から「ひょい」と逃げていたところ「おヒョイ」のあだ名がついたという。2017年1月25日、心不全のため死去。82歳没。

藤村 俊二(ふじむら しゅんじ、1934年〈昭和9年〉12月8日 - 2017年〈平成29年〉1月25日)は、日本の俳優、声優、タレント、振付師、実業家。神奈川県鎌倉市出身。愛称は「おヒョイ(さん)」。俳優事務所、有限会社O’hyoi & Sons(オヒョイアンドサンズ)所属。

東宝芸能学校舞踊科を第1期生として卒業。

日劇ダンシングチーム12期生として1960年に渡欧し、イギリスやフランスを巡る。このとき本場の芸の水準に驚いて舞踊家の道を断念し、帰国後、振付師に転向。ザ・ドリフターズの大人気番組『8時だョ! 全員集合』(TBS)やレナウン「イエイエ」のCFの振り付けも担当した。

『8時だョ! 全員集合』では、ギャグアドバイザーだったこともあり、「ヒゲダンス」の振り付けを担当したとされる。しかし藤村自身が2008年4月18日放送のNHK-FM『邦楽ジョッキー』や『おしゃれカンケイ』でこれを否定し、『8時だョ! 全員集合』で振り付けたのはオープニング(民謡「北海盆唄」の替歌)の「エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャン コーラヤ」の部分であり、「腕・肩を順番に触るだけの単純な動作だが、忙しく踊っているように見える振り付け」と語っている。

かつて代表を務めていた俳優事務所「オフィス・オヒョイ」には自身のほか黒澤久雄や岡崎友紀らも所属していたが、2011年をもって同事務所は解散。滝口順平の死去に伴い2011年から担当していた『ぶらり途中下車の旅』のナレーションも2015年10月24日放送分からは太川陽介や林家たい平、石丸謙二郎らが週替わり(代役)でナレーターを務めた(2016年1月9日放送分から小日向文世が3代目ナレーターを担当するまで)。

2015年10月に小脳出血で倒れる。手術後、リハビリのため千葉県内の病院に転院。12月に藤村夫人が『女性自身』のインタビューに応じて、藤村について「体調を考慮して『ぶらり途中下車の旅』のナレーションを2015年10月をもって正式降板し、それと共に芸能界から引退した」ことを公表した。血管の状態が思わしくないため、千葉県の病院に通院していたという。一方、有限会社O’hyoi & Sons(オヒョイアンドサンズ)代表取締役で長男の藤村亜実は「単に『ぶらり途中下車の旅』を降板しただけ」と引退発言報道を公式に否定していた。

2017年1月25日午後8時45分頃、心不全のため静岡県御殿場市内の病院で死去。82歳没。

引用元:藤村俊二 - Wikipedia























2025年12月6日土曜日

車だん吉



12月6日は、タレント・俳優の車だん吉(くるま だんきち)の誕生日です。1966年にいわたがん太とコンビを組みコント55号の弟分として「コント0番地」を名乗り、たんくだん吉と名乗り活動していた。のちに車だん吉と改名。主に端役として活動していたが「お笑いマンガ道場」にレギュラー出演したことで全国的に有名になる。以降現在まで活動を続ける。

車 だん吉(くるま だんきち、1943年12月6日 - )は、日本のタレント・俳優・漫画家。本名:白沢 力(しらさわ つとむ)。浅井企画所属。愛称は、だんちゃん。

東京都、現在の江東区生まれ、千葉県佐倉市在住。立正大学経済学部卒業。身長177cm。

1966年3月、大学卒業後に左とん平に弟子入りしたところ、左に浅井企画を紹介され、事務員として入社。萩本欽一が主宰していた劇団・東京新喜劇の劇団員だったいわたがん太(のちに岩がん太→岩だん吉と改名)とコンビを組むことになり、芸人に転身した。コント55号の弟分として「コント0番地」を名乗っていた。当時の芸名はたんくだん吉で、はかま満緒の命名による。これは「顔がマンガみたいだから」との理由で、『タンクタンクロー』と『冒険ダン吉』からのもじりである。

同じ事務所の坂上二郎が三船敏郎主演のテレビ時代劇『荒野の素浪人』に出演する際に、抱き合わせ出演を依頼した。しかし番組制作側に芸名に難色を示された事から、「たんく」→「戦車」→「車」と改名した。

コント55号全盛時には、岩と共に萩本と「同棲」して、彼の身の回り一切を支えていた。しかし、岩が起業(当初魚屋、のちラーメン店へ転業)のため芸能界を引退し、コンビを解消。その後も車は芸能人として活動を続ける。

1976年から1994年まで放送された中京テレビのバラエティ番組『お笑いマンガ道場』で全国的に有名となり、プロ顔負けの漫画を披露し、人気を博した。マンガ道場での共演者であった漫画家 鈴木義司、富永一朗の推薦を受け、漫画家活動も行っており、漫画雑誌「わんぱっくコミック」や欽ちゃんの4コマ漫画おまけ付きい!(週刊漫画サンデー)などに漫画を掲載したこともある。

老女に扮する芸を持ち、九州を中心に活動したばってん荒川、吉本新喜劇の桑原和男と並ぶ「お婆さんキャラ」を持つ。また、役者としても様々なドラマ・映画に出演している。

日本テレビ『ぶらり途中下車の旅』ではかつて約2か月おきに出演し、「ミスターぶらり旅」の異名を取っていた(初代ナレーターだった滝口順平の逝去以後出演取りやめ)。

また声優として、『ピタゴラスイッチ』の百科おじさんの声を担当していた。初代の名古屋章から数えて三代目であった。

コントグループ「東京03」のメンバー・飯塚悟志は親戚。

引用元:車だん吉 - Wikipedia















2025年11月14日金曜日

阿藤快 (阿藤海)



11月14日は、俳優・タレントの阿藤快(あとう かい 旧芸名・阿藤海)の命日です。主に脇役として俳優活動を続けていたが1988年「教師びんびん物語」に主人公・徳川龍之介(演:田原俊彦)の上司である教頭・御前崎マキオ役でレギュラー出演し、お茶の間の人気を獲得。ドラマ出演等の俳優活動に加え、グルメ番組でのリポーター役・旅番組での案内役を担当。特に「なんだかなー」の名ゼリフは頻繁にモノマネに起用されるなど、有名である。2015年11月14日、胸部大動脈瘤破裂により死去。69歳没。誕生日も1946年11月14日であった。

阿藤 快(あとう かい、1946年〈昭和21年〉11月14日 - 2015年〈平成27年〉11月14日)は、日本の俳優・タレントである。神奈川県小田原市出身。東京都立大学法学部法律学科(二部)卒業。劇団俳優座、舞プロモーションを経て、 ボニート合同会社(Bonito LLC)に所属していた。血液型A型。本名は阿藤 公一(あとう こういち)。旧芸名は阿藤 海(読み同じ)。

大学卒業後、劇団俳優座の舞台部に加入。後に原田芳雄の薫陶を受けたことと中村敦夫の誘いをきっかけに役者を目指すようになった。原田が出演した映画・ドラマに起用されることが多く、原田を兄事してその交流は原田逝去まで続いた。他にも高倉健と共演する機会も多かった。

その後、原田、中村、市原悦子、地井武男ら、いわゆる俳優座造反組と呼ばれるグループと退座。約10年余は悪役や端役として俳優活動を続けていた。1988年、『教師びんびん物語』に主人公・徳川龍之介(演:田原俊彦)の上司である教頭・御前崎マキオ役でレギュラー出演し、お茶の間の人気を獲得。

ドラマ出演等の俳優活動に加え、グルメ番組でのリポーター役・旅番組での案内役を担当。特に「なんだかなー」の名ゼリフは頻繁にモノマネに起用されるなど、有名である(ちなみに 「なんだかなー」は、険悪な現場を和ませるために言うようになったもので、料理がまずい際に言う言葉ではない)。

気さくで謙虚な人柄から「芸能界で最もいい人」や「裏表のない芸能人」として名前が挙がることもある(実際、タモリらからも「芸能界一イイ人」と評されていた)。

食べ物でむせにくい芸能人としても重宝され、彦摩呂らグルメリポーター界からも一目置かれていた。

2001年11月14日に芸名を阿藤海から阿藤快へ改名。

2015年11月15日、仕事先に姿を見せなかったため、午後2時頃に所属事務所スタッフと家族が自宅を訪ねたところ、ベッドに横たわって亡くなっているのが発見された。発見時より病死とみられ、その後、胸部大動脈瘤破裂が正式な死因とされた。69歳没。生没同日であった。

引用元:阿藤快 - Wikipedia



















2024年4月16日火曜日

なぎら健壱



4月16日は、シンガーソングライター・俳優・タレントのなぎら健壱(なぎら けんいち)の誕生日です。本人はタレントやバラエティ色が強いが、1970年代から活動しているフォークシンガーである。

なぎら 健壱(なぎら けんいち、1952年〈昭和27年〉4月16日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント。本名は柳楽 健一(読みは芸名と同じ)。旧芸名・なぎら けんいち。

東京都中央区銀座(旧・木挽町)出身。血液型はO型。

長男は、ヒップホップユニットのREMのボーカルであるeito.08(柳楽詠人)。弟子に中里トシ、田代ともや、プロフェッサー佐藤がいる。

高石友也に感化され、アングラフォークに目覚める。後に五つの赤い風船の西岡たかしや、高田渡に影響を受ける。1970年岐阜県の中津川で行われた全日本フォークジャンボリーにアマチュアとして飛び入り参加し(同年ひがしのひとしも同じく参加している)ライブ盤に収録された。なぎらが注目されたのは1971年の第3回全日本フォークジャンボリーだった。おもむろにステージに登場したなぎらはアングラ・フォークの名作・加川良の「教訓I」を「いもちゅうは六十度…」と歌詞を変えて歌い、大ウケ。以降、替え歌の名人と異名を取り、吉田拓郎の大ヒット曲「旅の宿」を「土方のきみは木綿のふんどし 冷焼酎の首つまんで もう一発いっぱいいかがなんて みょうに色っぽいね」と歌った「旅のドヤ」は名作とされる。

1972年『万年床』でアルバムデビュー。

なぎらの名前を全国に轟かせたのが1974年1月25日にリリースしたシングル「悲惨な戦い」だった。同曲はフィクションにもかかわらず実話と聴き手は錯覚してしまうほどよく出来ており、日本相撲協会が「国技をなめているのか」とカンカンに怒り、発売元のエレックレコードがそのことを宣伝のネタに使い、ますます怒りを買った。この影響か不明ではあるが、放送禁止歌になり、ラジオやテレビから締め出された。

1976年日本青年館での実況録音盤『永遠の絆』は、司会のタモリ、生田敬太郎、大塚まさじ、加川良、斉藤哲夫、シバ、高田渡、よしだよしこ、渡辺勝らが盛り立てた。1982年には坂田おさむとユニット「フォークマン・ブラザーズ」を結成し、活動した。

1976年に出演した『嗚呼!!花の応援団』(日活)での薬痴寺先輩役で注目を浴びて以降、役者としても活動している。

音楽活動では1990年代後半以降、カントリー、ブルーグラス色の強い作品を発表。カーター・ファミリー・ピッキングを行う数少ないシンガーの1人である。

現在も吉祥寺、横浜などを中心にライブ活動を続け、時に地方公演も行う。テレビ番組やライブの曲間に語る話には常軌を逸したものが多く、「いい加減なことを言う」「平気で(ネタとして)嘘を言う」キャラクターといわれているが、本人は「実際に見た話。〈おかしなもの〉にアンテナを張っているから見える」と語り、自らの本職を「語り部」と称している。また、本人は「いい加減さは高田純次さんの方が上」とも言っている。

引用元:なぎら健壱 - Wikipedia

















人気の投稿(過去7日間)