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2025年10月22日水曜日

キューティー鈴木



10月22日は、日本の元女子プロレスラー・タレント・女優のキューティー鈴木(キューティーすずき)の誕生日です。愛らしい容姿からアイドルレスラーとして人気を集め、試合だけにとどまらず歌、ドラマ、映画、CM、グラビア、バラエティ番組など多方面で活躍、トークショーなど各種イベントにもひっぱりだこで絶大な知名度を誇った。女子プロレス引退後も芸能の仕事は継続する。

キューティー鈴木(キューティーすずき、本名:原嶋 由美 - はらしま ゆみ、旧姓:鈴木、1969年10月22日 - )は、日本の元女子プロレスラー、タレント・女優。埼玉県出身、川口市立十二月田小学校、川口市立十二月田中学校卒業、川口市立川口女子高等学校中退。

愛らしい容姿からアイドルレスラーとして人気を集めた。試合だけにとどまらず歌、ドラマ、映画、CM、グラビア、バラエティ番組など多方面で活躍、トークショーなど各種イベントにもひっぱりだこで絶大な知名度を誇った。『爆報! THE フライデー』(2016年7月22日放送、TBSテレビ)では女子プロレスラー史上最高の美女と紹介された。

現役時代は身長155cm、B86cm、W66cm、H90cm、体重55kg。血液型はAB型。

女力道山と言われた大森ゆかり(元全日本女子プロレス)をプロレスラーとしての目標とし、ライバルは尾崎魔弓である。

師である山本小鉄の「思いやりのある人間になれ。」という教えに感銘を受け、後輩への指導やインタビューでたびたび引用する。

雑誌では、技を掛けられて苦悶の表情を浮かべる写真が多く使用され、当時のキューティーのイメージとして定着する。男性ファンからは、「そのやられっぷりがいい」と支持され、弱いイメージも持たれるが、受け身のうまさと打たれ強さには定評があり、尾崎魔弓は「あのケガに対する強さは持って生まれた才能だと思う。」と語っており、引退まで大きな怪我はなかった。

プロレスラー時代の趣味は、犬の散歩とファミコン。特に『ドラクエ』に熱中し、『女子プロレスグランプリ』(ソニー・マガジンズ)ではゲームに関するコラムを寄稿していた。ゲームソフトの新作が発売されると、弟に寮まで届けさせることもあった。

アイドル雑誌を好み、特に『DUNK』(集英社)と『BOMB』(学研)を愛読していた。好きな芸能人は永井真理子、近藤真彦、織田裕二、瀬能あづさ、三上博史。歌番組で近藤真彦と共演した際は感激していた。

引退後も含め、14冊の写真集を出版している(女子プロレスラー最多)。最終的にヘアヌードまで披露しており、「個人的にはギリギリで行きたかったけど押しに弱いから。」とカメラマンの要求を断れなかった旨を述懐している。レズビアンを彷彿させる尾崎との写真集(『赤い糸』サン出版)の撮影では、カメラマンから「抱き合ったみたいなのやってみようか。」との要求に対し、当初は共に「嫌だ、冗談じゃない!」と抵抗したという。

小学4年生の頃から母の薦めで箏を習い始め、中学卒業まで続けていた。

引用元:キューティー鈴木 - Wikipedia

























2025年1月11日土曜日

アブドーラ・ザ・ブッチャー



1月11日は、カナダ出身の元プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)の誕生日です。ネイティブ・アメリカンの父親とアフリカ系アメリカ人の母親の間に生まれる。試合での流血の傷跡と地獄突き等の決め技、その反面愛嬌のあるルックスなどでお馴染みのプロレスラーだ。2012年1月2日に現役引退を表明。2019年2月19日にブッチャー現役引退セレモニーが行われた。

アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)のリングネームで活躍したラリー・シュリーヴ(Larry Shreve、本名:Lawrence Robert Shreve、1941年1月11日 - )は、カナダ出身の元プロレスラー。オンタリオ州ウィンザ-生まれ。

生年は1936年ともされる。ギミック上の出身地はアフリカのスーダン。日本でのニックネームは「黒い呪術師」、入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。

プロレス界を代表する悪役レスラーの一人で、2011年にはWWE殿堂入りしている。来日回数は140を超えており、これは歴代外国人レスラーとしては最多である。また親日家であり、現夫人は韓国人と日本人のハーフでもある。

日本のプロレス界に一大旋風を巻き起こした悪役レスラーの一人である。全盛期のファイトスタイルはフォークなど隠し持った凶器で相手を流血させ、地獄突きなどの空手殺法から「毒針エルボー」と表現されたエルボー・ドロップでとどめを刺すというもの。1980年前後はマンネリ防止のためか、クラッシャー・ブラックウェルから伝授された山嵐流バックフリップをフィニッシュに用いていたが、定着はしなかった。空手七段という触れ込みであり、ブッチャーが息を吐きながら空手の構えをすると喝采が起きた。

『全日本プロレス中継』や大会パンフレット等では、しばしば「知名度No1外国人レスラー」と紹介されていた。大日本プロレス参戦時には、社長のグレート小鹿が『週刊プロレス』誌上で「集客力があるから(ブッチャーを)呼ぶんです。特に地方での集客が違いますね」と語っている。

相手を流血させるだけでなく、自らもよく流血した。そのため額は傷を負いすぎて皮膚が弱くなり、少し頭をぶつけただけでも流血するようになってしまった。その傷はブッチャーのトレードマークとなっている。クラブのホステスから「本物の血か?」と尋ねられた際、ブッチャーはカミソリを手に額を切り刻み、さらに針と糸で自ら縫い合わせたというエピソードがある。

来日の際にはしばしば老人ホームへ慰問に訪れている。近年の日本向けインタビューでは「親をリスペクト(尊敬)しろ。親を尊敬しない人間の面倒など誰も見てくれないぞ」「日本人はアメリカ風になりすぎて古い日本の良さを忘れている」など、悪役らしからぬ真面目な発言もしている。この発言は自身の引退セレモニーの挨拶でも見られた。

また、実業家の一面も持ち、かつてアメリカ・ジョージア州アトランタで「Abdullah the Butcher's House of Ribs and Chinese Food」というバーベキューレストランを経営していた。

引用元:アブドーラ・ザ・ブッチャー - Wikipedia



















2024年12月3日火曜日

長州力



12月3日は、元プロレスラーで現在はタレント活動を展開する、長州力(ちょうしゅう りき)の誕生日です。ニックネームは「革命戦士」。

長州 力(ちょうしゅう りき、1951年12月3日 - )は、日本の元プロレスラー、YouTuber。山口県徳山市(現・周南市)出身。静岡県熱海市在住。北海道猿払村ふるさと納税大使。

在日韓国人2世として生まれ、2016年に日本へ帰化した。韓国名は郭 光雄(かく こうゆう、クァク・クァンウン、곽광웅)。現在の本名(日本名及び旧リングネーム)は吉田 光雄(よしだ みつお)。

ニックネームは「革命戦士」。入場曲は異母犯抄作曲のオリジナルテーマ曲『パワーホール』。血液型O型。

スタン・ハンセンの流れを汲む、試合開始から終了まで走り回るハイスパート・レスリングの象徴とされ、基本的な技であっても差別化を図る工夫がなされている。また試合中に使う技の種類はレスラーの中でも比較的少ない方であるが、クラシカルなファンやマスコミの一部には逆に昭和プロレスの選手にして見ると使用する技の数が多いという声も存在する。

本人は小力について尋ねられた際、「昔から(特定の)レスラーを物真似する奴は多かったけど、自分のは出ないだろうなと思っていたので驚いた」「小力のおかげで覚えてもらえる」「家族全員小力の大ファン、全然キレてないですよ」とコメントしている。

自分で後ろ髪が切れないから、という理由で長髪がトレードマークであるが、過去に3度短髪にしている(1993年7月 - アキレス腱断裂・入院、復帰の際。1995年6月 - 越中とのタッグマッチに敗れ、リング上で自ら長髪を切る。1998年1月 - 引退後。)。1997年にも何度か髪を切っているが、目立った部分は前述の通りである。2000年代以降は茶髪でウェーブが掛かっている。

『さんまのまんま』(関西テレビ)に出演した際には、「自分はタイトルをとってもなかなか防衛することが出来なかった」と話した折に明石家さんまから「あんた、弱いんだ?」とあっさり言われて苦笑した(事実、王者としては、シングル・タッグともに短命に終わることが多かった)。また「話が舌足らずで聴きづらい」というさんまに対し「自分ではそう思っていないが、人にはよく言われる」と答えている。

2012年大晦日に放映された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 絶対に笑ってはいけない熱血教師24時』で、天龍源一郎と共に、滑舌の悪い教師役で出演した。

エステーが製造する消臭剤「消臭力」は、長州力にちなみ、同社の会長・鈴木喬によって名付けられた。

引用元:長州力 - Wikipedia



















2023年8月9日水曜日

ジャッキー佐藤 (ビューティ・ペア)



8月9日は、女子プロレスラーのジャッキー佐藤の命日です。1976年にマキ上田と「ビューティ・ペア」を結成して女子プロレス界に旋風を巻き起こし一世を風靡した。1999年8月9日没。41歳。

ジャッキー佐藤(ジャッキーさとう、本名:佐藤 尚子(さとう なおこ)、1957年10月30日 - 1999年8月9日)は、日本の女子プロレスラー。神奈川県横浜市港南区出身。

川崎市立桜本小学校在校時から長身で、横浜市立浜中学校在学中はバスケットボール部で活躍。その後結局は1975年3月に神奈川県立商工高等学校を2年で中退し全日本女子プロレスに入門。デビュー戦は同年4月27日のマキ上田戦。 1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王座を獲得した。ビューティ・ペアは「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットする。当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際には観客席から投げ込まれた紙テープや紙吹雪でいっぱいになった。ジャッキー佐藤名義で「美しい決意」、「ポケット一杯の涙」、「もしも旅立ちなら(B面:Ciscoを探せ)」というシングルレコードも出している。

1977年11月1日にはマキが持つWWWA世界シングル王座に挑戦。この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを獲得。1979年2月27日には「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めで勝ち、マキは引退、ビューティ・ペアに終止符が打たれた。マキ引退後はモンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還したが、1981年2月25日のジャガー横田(当時:横田利美)戦で同王座から転落。1981年5月21日に引退式が行われた。

その後、新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に参加。1986年8月17日、対神取忍(当時:神取しのぶ)戦で現役に復帰する。しかし、団体内でのトラブルから神取との確執が表面化し、1987年7月18日の神奈川・大和車体工業体育館大会において行われた神取との一騎打ちが壮絶なセメントマッチとなり、敗れたジャッキーは1988年3月20日での試合を最後に現役を引退した。

引退直後の1988年に体操教室の会社「ジャムナ」を設立。スポーツプログラマー、ヘルスケア・トレーナーの資格を取得し、中高年女性を中心に自らが考案した「ジャムナ体操」の指導や講演活動を行っていた。

同年10月にがんを告知され、手術。術後の11月29日に全女30周年記念大会(横浜アリーナ)に殿堂入り選手として出席したのが、公の場に姿を見せた最後となった。1999年3月に再入院しだが同年8月9日8時41分、胃がんのため神奈川県川崎市内の病院で死去。41歳没。生涯独身だった。

引用元:ジャッキー佐藤 - Wikipedia










ビューティ・ペア - Wikipedia



2023年5月24日水曜日

ラッシャー木村



5月24日は、プロレスラーのラッシャー木村の命日です。2010年5月24日没。68歳。

ラッシャー木村(ラッシャーきむら / Rusher Kimura、1941年6月30日 - 2010年5月24日)は、日本のプロレスラー、元大相撲力士。本名:木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。

後期のエースを務めた国際プロレスでは「金網デスマッチの鬼」の異名を持つブルファイターとして活躍し、新日本プロレス参戦時は国際軍団の総帥としてアントニオ猪木と抗争を繰り広げ、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。

2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。

佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。

1958年3月場所にて、木ノ村(きのむら)の四股名で初土俵を踏む。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。

大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でデビューする。

豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。

1981年10月、国際の解散に伴い、残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は国際のメンバーは新日本に参戦し、新日本対旧国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択した為、最終的に新日本に登場した選手は木村、浜口、寺西の3人だけとなった。1981年9月23日、田園コロシアム大会に来場し、メインイベント前に決意表明を示す場を与えて貰ったが、木村の真面目な性格によって「こんばんは事件」が発生。この出来事が「マイクの鬼」と呼ばれ、マイク・パフォーマンスが代名詞となるきっかけになった。

馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛から、プロレスリング・ノアに旗揚げメンバーとして参加。

2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが、最晩年にはまったく攻撃をしないまま、マイクパフォーマンスのみで終わる試合もあるなど精彩を欠き、2003年3月1日の武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。

2004年7月10日、体調の悪化と「これ以上関係者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明。以降、公の場から姿を消した。

2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。68歳没。関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという。

引用元:ラッシャー木村 - Wikipedia











2023年3月3日金曜日

マッハ文朱



3月3日は、元女子プロレスラーで女優・タレント・歌手のマッハ文朱の誕生日です。

マッハ 文朱(マッハ ふみあけ、1959年3月3日 - )は、日本で活躍する女優・タレント・歌手。元女子プロレスラー。熊本県出身。身長180cm(1975年7月)。血液型B型。

元々歌手志望で、1972年、13歳で『スター誕生!』に出場し、第5回決戦大会(本戦合格者が出場する、芸能事務所・レコード会社参加の最終審査)まで進出したが、スカウトのプラカードは挙がらなかった。

1974年、15歳で叔父がゴルフをやっていた関係でゴルファーになることが決まっていたが、「女子プロレスラー募集」という週刊誌の小さい募集記事を見つけてきた姉に勧められ、一転して全日本女子プロレスに入門(結果的に芸能界に縁のあった者や志望者がプロレスに入門するというケースのはしりとなり、ミミ萩原、アストレスなどがそれに続いた)。

リングネーム「マッハ文朱」は、巴ゆき子の命名によるものであった。「タイグリスあかね」というリングネームに決まっていたが、マッハの強い希望で「マッハ文朱」になった。「マッハ」は何をするのも速いことから、「文」は本名から、「朱」は母におねだりして唯一買ってもらってよく着ていたセーターの色から。

長身、ルックスの良さ、もって生まれたスター性、前述のごとく歌も歌えることなどからすぐに注目され、旗揚げ後苦難が続いた同団体初のアイドルスター選手となり、従来の女子プロレスのイメージを変え、テレビでの人気も上がり、同団体の経営が確立した。圧倒的な体格・体力だけでなく格闘技歴があったため、相手選手を壊さないように気をつけながらリングに上がっていたと本人は発言している。

1976年、「マッハ文朱」を名乗ってからわずか2年8ヵ月でプロレスラーを引退。芸能活動を開始する。映画『トラック野郎・天下御免』(シリーズ4作目)に序盤のシーンで一番星号とワッパ勝負をする女ミキサー運転手として出演、菅原文太を投げ飛ばす。

1977年に東京12チャンネルと1年間に5試合限定の契約をしてリング復帰。全日本女子プロレス時代にちゃんとした引退試合ができなかったため、お礼や感謝の気持ちを伝えたいとの意向により、ファンを抽選で無料招待して異種格闘技戦を開催した。

1993年、大学関連の知人のホームパーティーで知り合った男性と結婚。1994年2月に長女、1995年8月に次女を共に台湾で出産。のちにアメリカに移住、2004年から10年ほどスポーツバーを経営。

2020年7月現在、毒蝮三太夫が所属する、まむしプロダクションと業務提携をしている。

引用元:マッハ文朱 - Wikipedia











2021年11月14日日曜日

力道山



11月14日は、プロレスラーの力道山の誕生日です。1963年12月15日没。39歳。

力道山(りきどうざん、1924年11月14日 (諸説)- 1963年12月15日)は、プロレスラー・大相撲力士。本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)。旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(きん・しんらく、キム・シㇽラク、김신락、Gim Sillak / Kim Sillak)。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。

日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で朝鮮人の両親のもとに生まれた。もとはシルムの選手であったという。

1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。手術は無事に成功するが再び体調悪化し12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。39歳没(諸説あり)。戒名は大光院力道日源居士。墓所は東京都大田区の池上本門寺の他に、故郷・長崎県大村市の長安寺にある百田家の墓所に分骨されている。

力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、プロレスラーとしては比類のないスター性とカリスマ性を備えており、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いない。生前は朝鮮人であることがほとんど知られておらず、彼の相手レスラーを空手チョップで殴打する時の口癖が「この、朝鮮人野郎」だったこともあり、白人レスラーを次々と倒す姿は、敗戦後の日本人の一種愛国的な感情をも揺さぶった。「総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前を知らない者はいない」とされ、テレビの普及にも大きく貢献があった。またバックに就いていた東声会は、力道山のプロレス興行により莫大な富を手にすることともなった(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。

引用元:力道山 - Wikipedia







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