2023年5月28日日曜日

天馬ルミ子



5月28日は、元歌手の天馬ルミ子(てんま るみこ)の誕生日です。

天馬 ルミ子(てんま るみこ、1964年5月28日 - )は、日本の元歌手。本名は小林るみこ(こばやし るみこ、旧姓:天間舘 - てんまだて)。神奈川県川崎市出身。品川高等学校(現在の品川女子学院高等部)卒業。身長167cm。血液型O型。妹が3人おり、そのうちの一人ははモデルの天間舘典子。娘は天馬桜子。

徳間音楽工業、CBS・ソニー、ユーズミュージックに所属した。

幼少期より日本舞踊、ピアノ、歌を習い、3歳の時に劇団ひまわりに所属。小学校4年生で平尾昌晃音楽学院へ入学、小学校6年生でデビューが決定する。

1977年、NHK総合テレビ「レッツゴーヤング」のサンデーズでデビュー。

1978年1月25日、ピンク・レディーの「妹分」として『教えてください、神様』で歌手デビュー。

デビュー後は「ぎんざNOW!」など多くのレギュラー番組に出演した。T&Cミュージックの倒産にともない、ミュージカル「春香伝」出演以外、一時学業に専念。

1983年、CBS・ソニーよりシングル『ヨコハマ・フラリ』(B面『裏窓』)を発売、活動を再開。もうひとつの夢であった喫茶店を経営するため調理師免許を取得。「ひょうきん予備校」などバラエティ番組にもレギュラー出演。

1992年、結婚。

2008年、デビューから30年を記念して自作曲『化粧前』を発表。

夫が経営する有限会社小林硝子店を手伝いながら「RUMIKO美人塾」を主宰。ボイストレーニングを中心に美しく生きるヒントをブログなどで紹介していた。

2017年11月2日、体調不良により休養することと、かわさきFMの番組も10月31日をもって終了したことをブログで報告。

引用元:天馬ルミ子 - Wikipedia













2023年5月27日土曜日

相本久美子 (近藤久美子)



5月27日は、女優・タレント・アイドル歌手の相本久美子の誕生日です。

相本 久美子(あいもと くみこ、1958年5月27日 - )は日本の女優、タレント、アイドル。本名:倉内 久美子(くらうち くみこ)。旧姓:相本。旧芸名:近藤久美子。血液型:B型。身長:160cm。

東京都港区出身。所属事務所はスペースプロ → 芸映プロダクション、歌手活動当時のレコード会社はCBSソニー → 東芝EMI。

中学3年在学中の1973年9月1日、牧葉ユミのサイン会場に於いて牧葉本人から直接スカウトされ、1974年9月21日、「近藤久美子」の芸名とシングル『小さな抵抗』で歌手デビューする。

1975年、雑誌の企画で西城秀樹と共演したことがきっかけで芸映プロに移籍する。相本によれば複数の新人歌手と西城との連載企画だったが、取材終了後、西城が芸映に彼女の移籍を推薦したという。

1976年、芸名を本名の「相本久美子」に改名。以降、歌・ドラマ・司会・雑誌のグラビアと多方面で活躍し、マルチタレントの先駆け的な存在となった。

代表的な仕事としては1976年から1981年まで務めた『TVジョッキー』の司会が挙げられる。メイン司会の土居まさるの補佐兼マスコット的なポジションだったが、(番組内の「奇人・変人コーナー」の参加者の去り際に相本が言う参加賞の「白いギターとジーンズをお持ち帰り下さい」は常套句であった)この番組は生放送だったこともあってハプニングが絶えず、頭の回転が速い彼女は時に、蛇が苦手だった土居(出てくると場を放棄して逃げていた)に代わって進行を取り仕切ったことも多々あった。 また、当時『TVジョッキー』の衣装にミニスカートを選ぶことが多く、均整の取れたスタイルと長い手足にミニの衣装や水着がよく映えたことから、この時期、数多くの雑誌のグラビアや表紙を飾ることになった。

歌手活動に関しては、彼女自身の歌唱は一定の水準を満たしていたが、事務所移籍後、積極的に取り組んだのが二十歳前後と、アイドル歌手としてはやや年齢が高かった。またアイドル歌謡全体がニューミュージックの台頭で一時停滞し、その後いわゆる1980年デビュー組によって一気に世代交代した時期と活動期間が重なったこともあり、レコードセールス的には振るわず、各種賞番組に絡むことはなかった。

引用元:相本久美子 - Wikipedia








「近藤久美子」名義の1974年9月21日発売のデビュー曲「小さな抵抗」





2023年5月26日金曜日

岩井由紀子 (ゆうゆ)



5月26日は、「おニャン子クラブ」元メンバー(会員番号19番)で元「うしろゆびさされ組」、元タレント・歌手・女優の岩井由紀子の誕生日です。元芸名は「ゆうゆ」。

岩井 由紀子(いわい ゆきこ、1968年5月26日 - )は、日本の元タレント、歌手・女優。愛称はゆうゆで、1987年から1994年の間は芸名として用いていた。

神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。

アイドルグループ『おニャン子クラブ』の元メンバーで、会員番号は19番。

1985年6月21日に『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)のオーディションに合格、おニャン子クラブ会員番号19番として活動を始める。ファーストアルバム『KICK OFF』からジャケット写真に参加。ゆうゆの愛称で親しまれ、後に同じくおニャン子クラブ会員番号16番の高井麻巳子と共に『うしろゆびさされ組』を結成。1986年7月、おニャン子クラブの5thシングル「お先に失礼」でフロントボーカルに選ばれる。その後もシングル、アルバムの多くの楽曲でフロントボーカルを担当し、中・後期のおニャン子クラブの中心的存在の一人となる。

事務所は渡辺プロダクションに所属し、1987年3月25日には「天使のボディーガード」でソロデビュー。高井麻巳子の卒業に伴い、同年4月、うしろゆびさされ組は解散。同年9月20日おニャン子クラブが解散した後、愛称のゆうゆを芸名にする。『歌え!アイドルどーむ』(テレビ東京)メインMC、『クイズ!年の差なんて』(フジテレビ)レギュラーなど、バラエティ番組を中心とするバラドルとして活動。

1994年、「大人のタレントとして活動するため」と芸名を本名の岩井由紀子に戻す。

1997年、青年実業家と結婚し、芸能界を引退。後に2児の母となる。

2002年、おニャン子クラブの再結成に参加し、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ)、『FNS歌謡祭2002』(フジテレビ)に出演。

引用元:岩井由紀子 - Wikipedia










うしろゆびさされ組 - Wikipedia



2023年5月25日木曜日

志田こはく



5月25日は、女優の志田こはくの誕生日です。2022年にスーパー戦隊シリーズ「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」で鬼頭はるか/オニシスター役を演じ話題となる。

志田 こはく(しだ こはく、2004年〈平成16年〉5月25日 - )は、日本の女優。埼玉県草加市出身。エープラス所属。

実姉はタレント、グラビアモデル、女優の志田音々。

小学5年生から中学2年生までフィギュアスケートに本気で取り組んでいたが、ケガをしたことでやめる。その時点で姉の志田音々はすでに芸能活動をしていたことから、「私もやってみたい」と思い始めて芸能界を目指すようになる。

2020年、ミス・ティーン・ジャパンに出場。結果は関東大会敗退だったが、会場での姿が現事務所の目に留まり、芸能界入り。

2021年、「ミスセブンティーン2021」のファイナリストに選ばれる。

2022年、舞台『六番目の小夜子』で俳優デビュー。同年3月6日、スーパー戦隊シリーズ『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の鬼頭はるか / オニシスター役で連続テレビドラマ初出演。同年3月19日に発売された『週刊プレイボーイ』14号にて初表紙を飾り、初グラビアにして初めてとなる水着姿も披露した。

幼少期は外で遊ぶことが多かったため、アニメや特撮はあまり見てこなかったが、『ドンブラザーズ』のオーディションを受けるにあたって所属事務所の先輩である新條由芽が出演していた『魔進戦隊キラメイジャー』を観て勉強したという。

引用元:志田こはく - Wikipedia






暴太郎戦隊ドンブラザーズ - Wikipedia







2023年5月24日水曜日

ラッシャー木村



5月24日は、プロレスラーのラッシャー木村の命日です。2010年5月24日没。68歳。

ラッシャー木村(ラッシャーきむら / Rusher Kimura、1941年6月30日 - 2010年5月24日)は、日本のプロレスラー、元大相撲力士。本名:木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。

後期のエースを務めた国際プロレスでは「金網デスマッチの鬼」の異名を持つブルファイターとして活躍し、新日本プロレス参戦時は国際軍団の総帥としてアントニオ猪木と抗争を繰り広げ、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。

2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。

佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。

1958年3月場所にて、木ノ村(きのむら)の四股名で初土俵を踏む。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。

大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でデビューする。

豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。

1981年10月、国際の解散に伴い、残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は国際のメンバーは新日本に参戦し、新日本対旧国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択した為、最終的に新日本に登場した選手は木村、浜口、寺西の3人だけとなった。1981年9月23日、田園コロシアム大会に来場し、メインイベント前に決意表明を示す場を与えて貰ったが、木村の真面目な性格によって「こんばんは事件」が発生。この出来事が「マイクの鬼」と呼ばれ、マイク・パフォーマンスが代名詞となるきっかけになった。

馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛から、プロレスリング・ノアに旗揚げメンバーとして参加。

2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが、最晩年にはまったく攻撃をしないまま、マイクパフォーマンスのみで終わる試合もあるなど精彩を欠き、2003年3月1日の武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。

2004年7月10日、体調の悪化と「これ以上関係者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明。以降、公の場から姿を消した。

2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。68歳没。関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという。

引用元:ラッシャー木村 - Wikipedia











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