2023年3月22日水曜日

大橋巨泉



3月22日は、タレント・放送作家・テレビ司会者・元参議院議員等さまざまな活躍をした、大橋巨泉の誕生日です。2016年7月12日没。82歳。

大橋 巨泉(おおはし きょせん、1934年〈昭和9年〉3月22日 - 2016年〈平成28年〉7月12日)は、日本のテレビタレント、放送作家、元参議院議員。 テレビ司会者のほか、競馬評論家、ジャズ評論家、時事評論家としての活動も行い、馬主でもあるなど、日本のマルチタレントの先駆けとなった。

実業家・芸能プロモーターとしてオーケープロダクション(旧・大橋巨泉事務所)を創業し、取締役会長を務めたほか、海外でお土産物屋「オーケーギフトショップ」を経営するオーケーギフトショップグループの取締役社長を務めた。オーケーエンタープライズ所属。

本名は大橋 克巳(おおはし かつみ)。芸名の「巨泉」は元々は自身の俳号である。

1960年代から1980年代にかけ、『11PM』や、TBS『クイズダービー』、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬や野球、麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のパーソナリティを務めた。その後は1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのレギュラー番組を全て降板して、メディア業界から「セミリタイア」した。

1969年に放映されたパイロット萬年筆(現:パイロットコーポレーション)「パイロット万年筆エリートS」のCMで譜面台の上で万年筆を走らせながらしゃべった「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」という台詞が当時の流行語となる。なお、巨泉の台詞にはテイク2バージョンとして「すぎしびのほねのすねにて はにりてら すらりぺらぺら はっぱのにのに。のにのにというのは良くないね。僕が言いたいのはね。18キンキラ金ペン パイロットエリートS ふみふみかほめほめというのはだね。書き味が最高と言うこと。やっぱりふみふみだろうね。」もあった。この台詞は巨泉のアドリブだったといわれているが、一時は巨泉のものまねを演じる際に枕詞のように用いられることも多かった。この台詞は後に昭和万葉集(1980年発刊)に短歌として収録されている。

2016年7月12日午後9時29分、急性呼吸不全のために入院先の千葉県の病院で死去。82歳没。法名は、「巨泉院釈克導」(きょせんいんしゃくこくどう)。通夜と葬儀は親族のみで済ませ、9月5日に「大橋巨泉を偲ぶ会」が開催された。

引用元:大橋巨泉 - Wikipedia











2023年3月21日火曜日

加藤和彦



3月21日は、ミュージシャン・作曲家・ギタリストなど「ザ・フォーク・クルセダーズ」や「サディスティック・ミカ・バンド」等のバンドで活躍をした、加藤和彦の誕生日です。2009年10月16日没。62歳。

加藤 和彦 (かとう かずひこ、1947年3月21日 - 2009年10月16日)は、日本の音楽家。作曲、編曲、音楽プロデュース、撥弦楽器や鍵盤楽器などの演奏・歌唱を通じて、制作者・実演家として活動した。愛称は「トノバン」。

1960年代フォークグループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』(通称フォークル)でデビュー。その後、ソロ活動に移行し、並行して1970年代初頭から中盤にかけてロックバンド『サディスティック・ミカ・バンド』を結成するなど、斬新なアイデアに満ちた創作活動で、1960年代後半から70年代の日本のミュージックシーンをリードした。

1977年、作詞家の安井かずみと再婚。安井が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」のコンビで、通称『ヨーロッパ三部作』などのソロ作品のほか、数々の作品を他ミュージシャンに提供した。また、時代の先端を行くファッショナブルな2人のライフスタイルも世間の注目を集めた。さらに、1980年代から映画・舞台音楽、1990年代後半からはスーパー歌舞伎の音楽など、ポップミュージックの垣根を越えたさまざまなジャンルの音楽も幅広く手がけていた。

2009年10月17日、長野県北佐久郡軽井沢町のホテルで遺体となって発見された。死因は首吊りによる自殺と見られている。62歳没。

引用元:加藤和彦 - Wikipedia






ザ・フォーク・クルセダーズ - Wikipedia


サディスティック・ミカ・バンド - Wikipedia


安井かずみ(右)と共に



2023年3月20日月曜日

井上正大



3月20日は、俳優の井上正大(いのうえ まさひろ)の誕生日です。2009年に特撮ドラマ「仮面ライダーディケイド」門矢士/仮面ライダーディケイド役で連続テレビドラマ初出演・初主演した。

井上 正大(いのうえ まさひろ、1989年3月20日 - )は、日本の俳優。神奈川県横浜市緑区出身。株式会社AICライツ代表取締役社長。

2008年6月、ミュージカル『ミュージカル・テニスの王子様』にて、俳優デビュー。

2009年1月、平成仮面ライダー10作記念作品『仮面ライダーディケイド』にて門矢士 / 仮面ライダーディケイド役で連続テレビドラマ初出演・初主演を飾り、同年5月に公開された『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』で映画初出演、同年8月に公開された『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』で映画初主演を飾る。

2010年1月、『TAXMEN』にてニコ役で安田顕とダブル主演を務める。

2012年、『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』にて3年振りに門矢士 / 仮面ライダーディケイド役で主演を務める。同作は、スーパー戦隊シリーズ『海賊戦隊ゴーカイジャー』の主演・小澤亮太とのW主演作である。

2022年9月30日、15年間所属したボックスコーポレーションを退社。

2023年1月9日、アニメ制作会社AICライツの代表取締役に就任したことが発表された。

引用元:井上正大 - Wikipedia









2023年3月19日日曜日

山田康雄



3月19日は、俳優・声優の山田康雄の命日です。アニメ「ルパン三世」の主役・ルパン三世の初代声優でも有名。1995年3月19日没。62歳。

山田 康雄(やまだ やすお、1932年〈昭和7年〉9月10日 - 1995年〈平成7年〉3月19日)は、日本の俳優、声優、司会者。テアトル・エコーに所属していた。長男は演芸作家の山田浩康。

代表作に、ルパン三世の声(初代)や、クリント・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えがある。

早稲田大学第一文学部英文科入学後に、学生劇団である自由舞台に入団。役者としての一歩を踏み出した。

1953年、難関とされる劇団民藝の試験に合格。大学を中退し、研究生として入団する。しかし、自分のやりたいコメディができず厳しい基礎練習ばかりの毎日に耐えられず1年で退団、フリーとなる。

フリー転身後はラジオやテレビに出演。1958年3月、それまで何度か共演していた熊倉一雄に誘われ劇団テアトル・エコーに入団、8月に『男の中の男』の広口役で初舞台を踏んだ。

1959年、海外ドラマ『ローハイド』においてクリント・イーストウッド演じるロディの吹き替えにオーディションで抜擢(ばってき)され声優デビュー。同作のヒットにより「クリント・イーストウッドの吹き替えは山田康雄」と世間から認知されるほど有名になる。

吹き替えでは、クリント・イーストウッドの他にジャン=ポール・ベルモンドも担当。アニメでは、1971年にルパン三世役に起用されて以降、亡くなるまで約23年半演じる代表作となり、自身のライフワークとなった。また、『お笑いスター誕生!!』の司会などテレビタレントとしても活躍していた。

1980年代からはテレビタレントやナレーターとしての仕事が増加し、ナレーション以外の声優業は持ち役の再演や単発のものが多くなる。なお、アニメ出演に関してはこの頃から「ルパンだけ」と決めていたようで、新規でレギュラー出演するオファーは基本的に辞退するようになったという。

1993年春、低カリウム血症により入院。この頃から歩行困難で入退院を繰り返すほど体調が悪化し、収録は椅子に座って行う事が増えた。また、自身の死期を悟っているような言動をとることがあった他、便箋に「ハヤイ ハナシガ イショ(早い話が遺書)」と家族へ感謝を述べた文章を綴り、自宅の机にしまったりしていた。

1995年2月17日午後3時30分、脳出血のため自宅で倒れ、東京都立荏原病院に搬送される。意識不明の入院状態が続き、医師は「予断を許さない」と診断。家族は毎日看病に通い詰めたが、3月18日夜に引き揚げた後に容体が急変、3月19日午前6時35分死去。62歳没。

引用元:山田康雄 - Wikipedia




「お笑いスター誕生!!」司会の山田康雄と中尾ミエ





2023年3月18日土曜日

曽我町子



3月18日は、女優・声優・歌手の曽我町子の誕生日です。数々の特撮番組の悪の女王・魔女役を演じた事で有名。2006年5月7日没。68歳。

曽我 町子(そが まちこ、1938年3月18日 - 2006年5月7日)は、日本の女優、声優、歌手。東京都八王子市出身。株式会社ステラ元代表取締役。

あがり症を克服するため、日本ジャズ学校に通い、1956年に桑の実劇団に入団。同年にNHKの児童番組『みんな一緒』でデビュー。本人曰く、このとき合格したオーディションは度胸試しで受けたものであったという。その後、1959年に伊藤道郎TV俳優養成所、1960年に東京アナウンスアカデミーアナウンス科及びCM科を卒業。

『チロリン村とくるみの木』のリップちゃん役で声優としてデビュー。声優としては『オバケのQ太郎』のQ太郎が著名な役の一つ。1961年、アメリカ映画『青い目の蝶々さん』が映画デビュー作となる。1962年の時点では東京俳優生活協同組合に所属し、1963年の時点ではフリーランスで活動。1965年の時点ではエマノン事務所に所属。

舞台、テレビドラマでも活躍。『レインボーマン』のゴッド・イグアナ役をはじめ、スーパー戦隊シリーズ(テレビ朝日系)では『電子戦隊デンジマン』『太陽戦隊サンバルカン』でヘドリアン女王、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』で魔女バンドーラを演じた。その他『魔法戦隊マジレンジャー』など数々の特撮番組に出演、悪の女王・魔女役を数多く演じた。

『ジュウレンジャー』は後にアメリカでも『パワーレンジャー』シリーズとして放送されて大ヒットとなった。

1983年に俳優業の傍ら、東京・原宿に趣味の古美術品収集を生かしたアンティークショップ「ステラ」を開業(後に国立市の自宅を改装して店舗を移転)、アクセサリー・オリジナル香水のデザインなど商品開発も手がけていたほか、休店日などにはファンとの交流会なども同店内で催していた。

2006年5月7日、自宅のあるマンションで亡くなっているところを、訪れた知人によって発見された(死因は膵臓癌)。68歳没。生涯独身だった。

引用元:曽我町子 - Wikipedia












「謎の女B」は1969年に映画『華やかな女豹』(日活)の挿入歌となった。平岡精二によるセルフカバーをはじめ、EGO-WRAPPIN'やキノコホテル、渚ようこらにカバーされている。後年、『赤坂泰彦のミリオンナイツ』(TOKYO FM)の1コーナー「うさんくさいPOPS」でも取り上げられた。



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