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2025年2月18日火曜日

岩男潤子 (声優・歌手)



2月18日は、声優・歌手の岩男潤子(いわお じゅんこ)の誕生日です。声優としては1994年「モンタナ・ジョーンズ」で声優デビュー。それ以前の1986年に女性アイドルグループ「セイントフォー」に正式メンバーとして加入したが1987年解散直前に脱退した。

岩男 潤子(いわお じゅんこ、1970年2月18日 - )は、日本の女性声優、歌手、アイドル。大分県別府市出身。岩男潤子オフィス所属。声優業以外はZERAPHと業務提携している。

初期の頃は、「いわお潤」や「潤」名義で活動していた時期もある。

女性アイドルグループ「セイントフォー」の妹分ユニットである「リトルウィング」として人知れず活動したのち、セイントフォーのメンバーである板谷祐三子の脱退に伴い、新メンバーオーディションを受けて合格。1986年に正式メンバーとなり、いわお潤の芸名をもらってデビュー。しかし、加入時点で解散時期が決まっているなどグループとしての活動が下り坂になっていたことや、板谷のファンからの誹謗中傷、過酷なレッスンで肉体的・精神的に追い詰められ、メンバーの励ましも空しく、解散を待たずに脱退を申し出る。脱退後、家族が事務所に多額のレッスン費などを負担していたことを知り、結果を出せなかった歯がゆさから一時的に芸能界への意欲を失う。

潤名義で石井光三とのデュエットソング『ねぇ、お父さん』(『満開!ピープルテレビ』テーマ曲、発売元:ポリドール)のリリースまで結びつく。

声質に関して「子供っぽい」「生理的に受け付けない人が多いかも」と評され、レッスンを重ねていくうちに自信を失う。声優に憧れていたものの、芸能生活に入るとアルバイトやレッスンで多忙だったため、欠かさず見ているアニメなどはなかったとのこと。

高校卒業後は童謡の歌唱やミュージカルの歌のお姉さん役、NHK教育テレビ『はてな・サイエンス』出演などの引き続き芸能活動を続けていたが、いずれも知名度の向上にはつながらず、目標だったソロ名義のシングルは出せないまま、両親と約束の10年の期限が迫っていた。一時は引退も考えたが、東京駅のキヨスクでのアルバイトで偶々通りがかっていたアイドル時代を知っていたアニメ関係者から「歌える声優を探しているから応募してみては」と勧められ、最後のチャンスとして受けたオーディションに合格し、1994年テレビアニメ『モンタナ・ジョーンズ』で声優デビュー。「10年間がんばったな……」と泣きながら閉じていた荷物のテープを喜びいっぱいで剥がして、反対していた両親に「もう1年がんばらせてください」電話を掛けていた。その時、両親が「あと1年じゃないよ。あと10年がんばりなさい」と言ってくれて、「また、10年がんばろう」という気持ちだった。そして1995年、シングル『シャッターチャンスの連続』をリリースし念願の歌手ソロデビューを果たす。同年12月23日、初のソロコンサートを東京・TBSホールで開催。

代表曲は『手のひらの宇宙』。他に『スカーレット』、『翼になれ』など。

引用元:岩男潤子 - Wikipedia














セイントフォー - Wikipedia 「いわお潤」として1986年に加入。


石井光三・潤/娘よ/ねぇ、お父さん



2022年5月3日火曜日

橋幸夫



5月3日は、歌手・俳優の橋幸夫の誕生日です。

橋 幸夫(はし ゆきお、1943年5月3日 - )は、日本の歌手、俳優、作曲家、プロデューサー。舟木一夫、西郷輝彦(2022年2月20日死去)とともに"御三家"と呼ばれている。本名:橋 幸男(読み同じ)。血液型はA型。著書に認知症の実母の介護生活を綴った『お母さんは宇宙人』がある。

俳優の橋龍吾は息子、演歌歌手の橋宏之(ひろゆき)は甥にあたる。東京都荒川区出身。

1960年に「潮来笠」でビクターレコード(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からデビュー、同曲で第2回日本レコード大賞新人賞を受賞し、『第11回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たす。『紅白歌合戦』には第11回から1976年の第27回まで17回連続出場、通算19回出場した。後にデビューした舟木一夫、西郷輝彦とともに「御三家」としてアイドル的な人気を集める。

1962年、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」が発売から「1か月で30万枚という驚異的な記録をたて(半年後の翌年5月に100万枚突破)」る大ヒットとなり、第4回日本レコード大賞を受賞した。1966年、「霧氷」で再び第8回日本レコード大賞を受賞。同賞ではいずれも史上初となる2度目の大賞受賞、新人賞と大賞の2冠を達成した(当時は最優秀新人賞と最優秀歌唱賞は存在しなかったため、主要な賞は新人賞と大賞のみだった)。また1964年には、邦楽にはじめてエレキサウンドを導入した『恋をするなら』をリリースし、その後『ゼッケンNO.1スタートだ』、『チェッ・チェッ・チェッ -涙にさよならを-』、『あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)』と一連のリズム歌謡を発表し、第7回日本レコード大賞企画賞を獲得している。人気と実力を兼ね備えた若手ナンバーワン歌手と目され、映画にも多数出演した。

1971年発売の「子連れ狼」は、元々は劇画のイメージソングだったが、テレビドラマ『子連れ狼』第3部の主題歌になったことで、お茶の間にも浸透。同じくトップ10入りするヒットとなり、第14回日本レコード大賞(大衆賞)、日本歌謡大賞特別賞他を受賞した。

デビューから10年余を過ぎて、佐川急便の出資を受けレコード会社「リバスター音産」を立ち上げたが、8年後に諸事情で頓挫した。

1980年前後に巻き起こった漫才ブームの時期、ザ・ぼんちのぼんちおさむが橋幸夫のものまねを頻繁に披露。歌手としてはやや低迷していた橋にもスポットが当たった。ぼんちおさむが橋の真似をする時のポーズ「あれ〜」を、1981年に橋本人がサンヨー食品のテレビCMで演じ、逆パロディとして話題になった。また清水アキラがものまねのレパートリーとしたことなどもあり、この頃よりバラエティ番組にも数多く登場するようになった。

1984年、女性アイドルグループ、セイントフォーのプロデュースに携わるが、彼女らの所属事務所との意見の相違や金銭トラブルなどが相次いで発生し、失敗に終わる。

2021年10月4日、80歳誕生日の2023年5月3日をもって歌手活動から引退することを発表。加齢による声帯の筋肉の衰えで「歌の馬力や声帯を維持することが難しくなったと実感し、それを隠したりごまかしたりするのは、自分の性格ではできない」と理由を説明した 。歌手活動引退後も芸能活動は継続する。

引用元:橋幸夫 - Wikipedia











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