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2026年8月2日日曜日

轟二郎 (三浦康一)



8月2日は、日本のコメディアン・タレント・殺陣師であった、轟二郎(とどろき じろう)の命日です。「金曜10時!うわさのチャンネル!!」「びっくり日本新記録(本名・三浦康一としてチャレンジボーイとして毎週レギュラー出演)」「翔んだカップル」に出演したことで知名度を上げる。2020年8月2日、大腸がんのため死去。65歳没。

轟 二郎(とどろき じろう、本名:三浦 康一(みうら こういち)、1954年〈昭和29年〉8月19日 - 2020年〈令和2年〉8月2日)は、日本のコメディアン、タレント、殺陣師。

1973年に若駒プロに入り、殺陣師(居合道三段)兼スタントマンから芸能活動を開始。

『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ)に出演したことでお茶の間の人気者となる。芸名は、この『うわさのチャンネル!!』の会議中に同番組のスタッフの一人がふと「轟」とつぶやいたことから決まっていったという。一方、『びっくり日本新記録』(読売テレビ)には本名でレギュラー出演し、“チャレンジボーイ”として毎週出演して活躍していたこともあり、自身の知名度も上がった。

バラエティー番組にも出演する傍ら俳優としても活躍し、『翔んだカップル』(フジテレビ)でレギュラー出演し、劇中で用いた「ボキ(僕)はね」という新語を使い流行させた。

1980年、水島びんとコンビを組み「コント百連発」を結成。お笑いスター誕生で銀賞を獲得する活躍ぶりだったが、このコンビも長くは続かず、翌年解散した。

その後は結婚式の司会から地方の番組のMCまで幅広く活躍していたが、脳梗塞を患い、静岡県に帰郷。治療と療養に専念した時期もある。

2014年より エフエムぬまづの朝の生放送「モーニングスプラッシュ」の木・金曜日を担当。2016年1月より静岡新聞にてコラムを執筆(同年3月まで)した。晩年までラジオ番組などでも活躍し、自身のオフィシャルブログに日頃の活動を掲載していたほか、総合情報ポータルサイト Niiiche にて、毎週水曜日の連載コラム執筆を担当していた。

2020年8月2日7時15分、大腸がんのため、神奈川県内の病院で死去。65歳没。死去する1年半前から闘病生活を続けており、同年2月に東京・新井薬師で行われた節分会への参加が最後の公の場になった。

引用元:轟二郎 - Wikipedia





















2026年3月9日月曜日

木梨憲武 (とんねるず)



3月9日は、お笑いタレント・歌手・俳優・画家である、木梨憲武(きなし のりたけ)の誕生日です。石橋貴明とともにお笑いコンビ「とんねるず」のメンバーとして最も有名、一世を風靡した。歌手や俳優としても活躍、画家やデザイナーとしても活動する。妻は女優の安田成美で、間に2男1女。

木梨 憲武(きなし のりたけ、1962年〈昭和37年〉3月9日 - ) は、日本のお笑いタレント、歌手、俳優、画家。1980年に石橋貴明とお笑いコンビ「とんねるず」を結成。キナシコッカ株式会社代表取締役社長兼所属タレント。妻は女優の安田成美で、間に2男1女。

1977年に帝京高校へ入学し、サッカー部に入部。部内ではムードメーカーで、当時同校の野球部にいた同級生の石橋とよくコンビを組んで友人達にネタを見てもらっていた[6]。高校時代、日本テレビ系のバラエティ番組『TVジョッキー』の一般参加コーナー「ザ・チャレンジ」に出場。木梨は正司歌江(かしまし娘)・和田アキ子・ルパン三世等のものまねを披露し、5代目チャンピオンとなる。当時、石橋も同番組の常連参加者であり、木梨が同番組のグランドチャンピオン大会に出場した際に石橋が友情出演したのがテレビでの初共演となる。

1980年7月、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)に石橋とのコンビ「貴明&憲武」として出場する。出場6週目(1981年)から現在のコンビ名「とんねるず」に改名(公式サイトでは、とんねるずの結成時期は「1980年」と記載されている)。1982年4月、同番組で10週勝ち抜き、グランプリを獲得。

1984年に『オールナイトフジ』にレギュラー出演したことで知名度を上げ、『オールナイトフジ女子高生スペシャル』でのMCを経て開始された『夕やけニャンニャン』にレギュラー出演してブレイク。歯に衣を着せない言動が話題となり、一気にスターの階段をかけ上っていった。

1994年、映画『そろばんずく』(1986年)で共演した安田成美と結婚。1996年、大晦日の『第47回NHK紅白歌合戦』に「憲三郎&ジョージ山本」として出場。2004年-2007年、2012年、単独ライブ『NORITAKE GUIDE LIVE』を開催。2010年、コンビ結成30周年を迎える。

2014年-2016年、創作活動20周年を記念した個展『木梨憲武展×20years INSPIRATION-瞬間の好奇心』を全国8カ所で開き、43万人を動員。

2018年4月、16年ぶり主演映画『いぬやしき』全国公開。

2024年1月15日、『春になったら』(カンテレ、フジテレビ系)で24年ぶりに連続ドラマ主演を務めた(W主演:奈緒)。

2024年1月26日、『みなさんのおかげです 木梨憲武自伝』発売。

引用元:木梨憲武 - Wikipedia

























2025年12月7日日曜日

小松政夫



12月7日は、コメディアン・タレント・俳優の小松政夫(こまつ まさお)の命日です。淀川長治のモノマネや「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」の番組で生まれた「電線音頭」や「しらけ鳥音頭」のヒットなどで知られる。俳優としても活躍した。2020年12月7日、肝細胞がんのため死去した。78歳没。

小松 政夫(こまつ まさお、本名:松崎 雅臣(まつざき まさおみ)、1942年〈昭和17年〉1月10日 - 2020年〈令和2年〉12月7日)は、日本のコメディアン、タレント、俳優、声優。社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身。

愛称は「親分さん」「小松の親分(自らのコントから)」「小松与太八左エ門」。所属事務所は有限会社ドン・タック。プロデューサーハウスあ・うんとスケジュール窓口で業務提携。

小松のコメディアンとしてのデビューは、付き人時に出演した『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)であった。

付き人兼運転手を約4年間務め上げた。

学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など、これまで接してきた人たちからヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、30万枚超え、または60万枚を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなる。植木も認める観察眼の持ち主だったといい、それが数多くのギャグや物真似芸を生み出した原動力であったと評される。

正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今もなお語り継がれている。

その後も小松はバラエティ番組やテレビドラマ、舞台など多方面で活躍した。1970年代後半から1990年代にかけては、『パナソニック ドラマシアター』(旧『ナショナル劇場』)や『月曜ドラマランド』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、後に善人役を多く演じるようになった。伊東は小松のことを「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評し、引き続き数多くのギャグの引き出しを保った。

2020年11月14日、容態悪化のため再入院。同年12月7日6時51分、肝細胞がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。78歳没。

引用元:小松政夫 - Wikipedia























2025年9月16日火曜日

宮川大輔 (お笑いタレント)



9月16日は、お笑いタレント・俳優の宮川大輔(みやがわ だいすけ)の誕生日です。元々は1991年から同期の星田英利とコンビ「チュパチャップス」でデビューしている。1999年からソロ芸人として活動している。吉本興業所属。

宮川 大輔(みやがわ だいすけ、1972年〈昭和47年〉9月16日 - )は、日本のお笑いタレント、俳優。吉本興業所属。

滋賀県大津市比叡平出身。既婚。事務所の先輩である宮川大助(宮川大助・花子)とは同音異字。

1991年3月、同期の星田英利とコンビ『チュパチャップス』を結成。

同年より、同期のナインティナイン(宮川が入った時にはナイナイの2人は学費未納で中退していた)等と共に、お笑いユニット『吉本印天然素材』に参加する。なお、宮川は当時メンバーの中で最年少であった。

1999年、天然素材からナインティナインと雨上がり決死隊が抜けたため天然素材が解散。チュパチャップスとしての仕事もなくなり、星田とのコンビ仲は著しく悪化した。宮川は星田へ解散を申し込み、星田からの了承を得てコンビを解散させた。コンビ解消後は本来の志望に沿って活動の中心を舞台公演に移した。

2000年、宮本亜門演出の舞台『BOYS TIME』のオーディションに1万人の中から合格し役者デビューとなった。2001年にルミネtheよしもとがオープンすると、会社からのオファーで吉本新喜劇に出演するようになり芸人の仕事に復帰する。

『人志松本のすべらない話』シリーズ(フジテレビ)は2004年の初回放送から毎回出演している。後にスピンオフ企画として『大輔宮川のすべらない話』がCSフジテレビ721で放送された。

2007年より、『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ)にて宮川が「お祭り男」として世界各地のお祭りに参加する企画「世界で一番盛り上がるのは何祭り?」が全国的な人気を博し、老若男女問わず幅広い層の人気を獲得した。2015年には人気のある祭りを選び、宮川のインタビュー等を収録した本が発売された。

引用元:宮川大輔 (タレント) - Wikipedia

















2025年6月10日火曜日

いとうあさこ



6月10日は、お笑いタレントのいとうあさこの誕生日です。旧芸名並びに本名は伊藤麻子。

いとう あさこ(1970年〈昭和45年〉6月10日 - )は、日本の女性お笑いタレント(ピン芸人)、司会者、リポーター、女優。本名および旧芸名は、伊藤 麻子(読み同じ)。

東京都渋谷区出身、中野区在住。マセキ芸能社所属。雙葉小学校、雙葉中学校・高等学校、舞台芸術学院ミュージカル別科卒業。

漫談が基本スタイル。異性関係の希薄さや金銭面の困窮など、自虐的なネタを好んで用いる。ネタの内容とは裏腹に、一貫して満面の笑みと快活な口調で進行するのが特徴。ライブではコスプレ1人コントや、物真似トークなども行う。例として「倖田來未の物真似でオヤジギャグを連発する」という持ちネタがあり、時折テレビ番組でも披露することがある。その際のキャッチフレーズは「ブスカワイイ」。

『エンタの神様』ではウクレレをつま弾きながら漫談を行う、独特のキャラクターで好評を得た。冒頭の自己紹介で「三十路と言う恐ろしい壁を越え早4年〜」と甚句調に述べた後、「同級生の子供が(当時)もう17歳」「同世代の親類で未婚者は自分だけ」「同い年は曙」と決め台詞を言うのが通例。

『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」では、1980年代のアイドルなど(菊池桃子、荻野目洋子、BaBeの二階堂ゆかり、柏原よしえ)や、アイドルのバックダンサー(スクールメイツ、キャプテン、ジャPAニーズ、Dee-Dee)またはバックバンド(シブがき隊のバックバンド、シブ楽器隊)、「ヤヌスの鏡」のオープニングなどの物真似をしている。

レオタード姿で漫談を行うネタを愛用していた。新体操のリボン演技をしながら登場、「浅倉南、○○歳(現在の年齢)です」と述べた後、「筋肉痛の回復が遅くなった」「眼科医から老眼を疑われた」など自分の年齢をネタにした決め台詞を言う。現在のところあだち充に許可は取っていない。着用しているレオタードは、黒沢かずこから譲り受けたものである。なお、2年間も着続けたことにより汗が全体に染み込み、何度洗っても臭いが取れなくなってしまったと述べていた。

引用元:いとうあさこ - Wikipedia



















2025年3月8日土曜日

高木ブー (ザ・ドリフターズ)



3月8日は、コメディアン・ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)である、高木ブー(たかぎ ブー)の誕生日です。コントグループ「ザ・ドリフターズ」のメンバーでもある。

高木 ブー(たかぎ ブー、boo Takagi、1933年〈昭和8年〉3月8日 -)は、日本のコメディアン、ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)。ザ・ドリフターズのメンバー。

本名は、高木 友之助(たかぎ とものすけ)で、高木ブーへの改名以前は高木 智之名義で活動していた。また、全員集合のオープニングなどでは、高木 ブ~名義で表記されていた。身長160 cm。芸名の由来となったのは若い頃からの肥満体型である。

大学卒業後は東京ガスの採用が内定していたが、それを蹴ってプロのミュージシャンとなる。これは学生時代からハワイアンバンドとしてバイトしており、すでに当時の大卒の初任給より多いギャラをもらう月もあったことから、「まぁ、なんとかなるだろう」と楽観的に音楽の道に進むことを決めた。

当時の芸名は高木智之で、自身がバンドのリーダーを務める「高木智之とハロナ・セレナーダス」「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」を結成。

「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」のバンドマンとして日本の芸能界での活動を始める。1960年代前半にエレキブームが到来したことで新バンド「ロジェ滋野とシャドーズ」を結成。「パップ・コーンズ」時代に仲本工事と出会い次の「シャドーズ」でも行動を共にし、2人はザ・ドリフターズに加入することになる。

高木自身は当初、楽器の腕前を買われてスカウトされたものと思っていたが、後年いかりやにスカウトの理由を尋ねたところ、「太っていてコミックバンド向きの外見だから、新生ドリフにスカウトした」と言われたという。

1984年9月14日、『8時だョ!全員集合』のリハーサル中に両足のアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱している。

1985年9月28日に『全員集合』が終了し、その後はドリフとしての活動と並行して、単独での活動も開始した(本人によると『全員集合』終了後、ドリフのメンバーで最初に単独の仕事をしたのは高木だという)。

同じ1985年にはフジテレビ『ドリフ大爆笑』の「長介・工事・ブー おなじみ雷様」コントがシリーズ化され、「雷様」が高木の当たり役となる。以後、雷様の扮装(角付き・緑のアフロヘアーのかつらに緑色の全身タイツと虎柄ショートパンツ)がトレードマークとなる。

1999年4月から6月に放送されたNHK教育テレビ『趣味悠々 高木ブーの今すぐ始めるウクレレ』に講師として出演した。

2023年、90歳の誕生日を迎えた記念に2冊目の自伝『アロハ90歳の僕 ゆっくり、のんびり生きましょう』(小学館)を出版。高木は90歳になる前から100歳現役を目標にしていたが、彼より10歳下の加藤も同じく100歳現役を目指すことを宣言したため、これに対抗して自分は110歳まで現役を続けることを新たな目標にしたと自伝の中で語っている。

引用元:高木ブー - Wikipedia


















ザ・ドリフターズ - Wikipedia



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