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2025年12月17日水曜日

ポール・ロジャース (フリー(バンド)、バッド・カンパニー、ザ・ファーム、クイーン+ポール・ロジャース)



12月17日は、イングランド出身のロック・ボーカリストである、ポール・ロジャース(Paul Rodgers)の誕生日です。1960年代後半から現在までにフリー、バッド・カンパニーなどのリードボーカリストとして活動した。特徴あるソウルフルな歌唱スタイルで偉大なるロック・ボーカリストとして有名になった。日本とも縁が深い。

ポール・バーナード・ロジャース(Paul Bernard Rodgers、1949年12月17日 - )は、イングランド、カナダのロック・ボーカリスト。1960年代後半から2023年現在に至るまで、フリー、バッド・カンパニーなどのリード・ボーカリスト、ソングライターとして活動。リズム・アンド・ブルースに根差した特徴あるソウルフルな歌唱スタイルは、後のロック・ボーカリストたちに多大な影響を与えた。

ロジャースは2011年にカナダ国籍を取得し、イングランドとカナダの多重国籍となった。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第55位。

時期により、歌唱スタイルは変化している。オーティス・レディングがインタビューや楽曲で頻繁に取り上げられ、活動初期の音源では歌唱スタイルの類似が確認できる。非常に強力な声の持ち主であることから、「ザ・ヴォイス」などの異名を持つほどである。

他にもインタビューでジョン・リー・フッカーやエルモア・ジェームス、ハウリン・ウルフなど名を挙げており、レイ・チャールズに至っては2010年に英国営放送BBCでジュールズ・ホーランドと共に「クライング・タイム」を演奏した。フリーのファースト・アルバムでは、ハウリン・ウルフの楽曲「Goin' Down Slow」を取り上げている。いずれからも、ブルースやリズム・アンド・ブルースの影響が窺える。

初めて購入したレコードはブッカー・T&ザ・MG'sの「レッド・ビーンズ・ライス」だったという。

幼少期は自宅でラジオが流れており、興味深くチャートを聴いていたとヴィンテージ・ロックのインタビューで語っている。フランク・シナトラ、エルヴィス・プレスリーも耳にしていた。プレスリーが登場した当時、彼の姉はプレスリーに夢中で、彼自身は10代を通しビートルズに夢中だった。ブルースのきっかけはローリング・ストーンズであり、B.B.キングやマディ・ウォーターズを発見し、音楽の深みにはまっていった。後に自分をオーティス・レディングに見立て歌うようになった。

フリーのメンバーとして初来日した際、「サムライはどこだ」と聞いたという。

元妻は野添和子・ひとみ姉妹の姪にあたる清水眞智(2025年10月死去)。1974年秋に私用で夫婦揃って来日した折、野添家に世話になった「お返しに」と、無報酬でドラマ『夜明けの刑事』の挿入歌「Yoake No Keiji」を日本語で歌った。レコード化はされていないが、ニール・ショーンをギターに迎えた日本公演で、リクエストに応え歌ったことがある。2010年10月のバッド・カンパニー日本公演では、アコースティックギターの弾き語りでフルコーラスを披露した。

眞智との間にもうけた息子スティーブ、娘ジャスミンは共にボアというイギリスのバンドで活動している。ボアの楽曲「DUVET」は、日本のメディアミックス作品『Serial experiments lain』のTVアニメーション版主題歌となった。スティーヴは、上記の2010年のバッド・カンパニー日本公演に同行した。

引用元:ポール・ロジャース - Wikipedia





























2025年12月5日金曜日

山内テツ (ベーシスト・フリー(バンド)・フェイセズ)



10月21日は、日本のミュージシャン・ベーシストである、山内テツ(やまうち てつ、Tetsu Yamauchi)の誕生日です。1970年代にブリティッシュ・ロック・バンド「フリー」と「フェイセズ」で活動していたことで知られる。近年では再びステージに立ち演奏を再開しているようだったが、2025年12月5日に自転車事故により亡くなったことが発表された(2025年12月4日に死去。)。79歳没。

山内 テツ(やまうち てつ、Tetsu Yamauchi、1946年10月21日 - )は、福岡県福岡市出身のロック音楽家、ベーシスト。1970年代にブリティッシュ・ロック・バンド、フリーとフェイセズで活動していたことで知られる。

本名は山内 哲夫(やまうち てつお)。1968年にマイク真木のザ・マイクスに加入して音楽活動を開始。ミッキーカーチス&サムライのメンバーとして海外遠征を経験。その後麻生レミのバック・バンドなどで活動。

1971年4月、初来日したフリーのポール・コゾフ(ギター)、サイモン・カーク(ドラム)とスタジオで出会い、意気投合して渡英。フリーはまもなく解散し、山内はコゾフ、カーク、ラビット(キーボード)と共に、コゾフ・カーク・テツ・ラビット名義で同名アルバム『コゾフ/カーク/テツ/ラビット』(1972年)を制作した。

1972年2月、フリーはコゾフ、カーク、ポール・ロジャース(ヴォーカル)、アンディ・フレイザー(ベース・ギター)のオリジナル・メンバーによって再結成されたが、まもなくフレイザーが脱退。後任に山内が迎えられた。フリーの再結成には薬物摂取癖に苦しむコゾフを救うという目的があったが、結局コゾフは活動に支障をきたしてしまい離脱。残ったロジャーズ、カーク、山内はラビットを迎えて、ロジャースがギタリストを兼任。彼等は7月にエマーソン・レイク・アンド・パーマーとのジョイント・コンサートで2度目の来日を果たし、山内もメンバーとして22日に後楽園球場、24日に阪神甲子園球場で第一部のステージに登壇して凱旋ライヴを行なった。同年10月、彼等は新作アルバムの制作を開始し、翌1973年1月にアルバム『ハートブレイカー』を発表。山内が作曲に参加した「Wishing Well」のシングルは全英チャート7位(Music Week)を記録。彼等はアメリカ・ツアーも行ったが、やがて活動が停滞気味になって自然消滅的に解散した。

1973年の後半、ロニー・レーンの後任としてフェイセズに加入。作曲に参加したシングル「You Can Make Me Dance, Sing Or Anything 」が1974年に全英チャート12位(Music Week)を記録。1974年2月のフェイセズの初来日公演で二度目の凱旋ライヴを行なった。

渡英した当初、彼はイギリスのミュージシャンが所属するユニオンに加入できず活動を制限されそうになったが、マスコミとファンによる支援の声が問題解決につながった。

1975年にフェイセズが解散すると帰国して、山内テツ&グッド・タイムズ・ロール・バンドを結成しライヴ・アルバムを発表。その後は日本でソロ・アルバムのリリース、クリエイションに加入するなどの活動を行なった。1985年にはフリー・ジャズのドラム奏者、羽野昌二と共にOpe Bandを結成し、1990年まで活動した。その後も羽野と共に、アルバム『デア・デヴィル』(1992年)、ヴェルナー・リュディのアルバム『気』(1996年)に参加している。

2011年以降は表立った音楽活動を行なっておらず、2012年1月6日に原宿クロコダイルにて石間秀機、ジョニー吉長らとステージに立った以外はフェイセズ再結成への参加やメディアへの取材対応も一切断り、家族と共に静かに幸せな生活を送ってきた。

約10年後の2023年の9月29日に横浜でライヴを行った。同年10月23日、MEETS DUOとして、嶋田吉隆とともに久しぶりに原宿クロコダイルのステージに立ち、翌2024年1月29日、6月6日にも出演。活発な動きを見せている。

2025年12月4日に死去。79歳没。

引用元:山内テツ - Wikipedia























2025年3月16日日曜日

アンディ・フレイザー (フリー、アンディ・フレイザー・バンド)



3月16日は、イングランド出身のソングライター・ベーシストのアンディ・フレイザー(Andy Fraser)の命日です。1968年に15歳で加入したロックバンド「フリー」での活動が最も有名。2015年3月16日に自宅でアテローム性動脈硬化症による心臓発作で亡くなった。62歳没。

アンディ・フレイザー(Andy Fraser、1952年7月3日 - 2015年3月16日)は、イングランドのソングライターにしてベーシストである。そのキャリアは40年以上にわたり、1968年に15歳で見出されて加入したロック・バンド、フリーのメンバーとなった2度の期間が含まれている。

フレイザーはロンドン中心部のパディントン地区で生まれ、5歳でピアノを始めた。ギターに切り替えた12歳まではクラシックを学ばされていた。13歳に至るまでに、イーストエンドのウェスト・インディアンにある複数のクラブで演奏するようになり、1968年に15歳で退学となった後、ハマースミス継続教育大学に入学した。そこで、同じ学生であったサッフォ・コーナーが彼女の父親に紹介し、ブルースの先駆者でラジオ・パーソナリティーでもあったアレクシス・コーナーが、彼にとって父親的存在となった。その後まもなく、ベーシストを探していたジョン・メイオールから電話を受けたコーナーは、フレイザーを提案した。当時まだ15歳で、プロのバンドに所属して、週に50ポンドを稼ぐこととなったが、最終的には短い在籍期間であることが判明した。

コーナーはまた、ポール・ロジャース(ボーカル)、ポール・コゾフ(ギター)、サイモン・カーク(ドラム)で構成された影響力のあるバンド、フリーへと向かうフレイザーの次の動きに尽力した。フレイザーは、ロジャースと「オール・ライト・ナウ」をプロデュースして共同で作曲。これが、20以上の地域でナンバー1ヒット曲となり、1989年後半までにアメリカで100万回以上のラジオ・プレイを獲得したことが、1990年にASCAPから認められた。2006年10月、「オール・ライト・ナウ」が300万回以上もラジオやテレビ番組で流されたとして、BMIのロンドン・ミリオン・エア・アワードがロジャースとフレイザーに与えられた。

フリーを脱退した後、フレイザーはボーカリストのスニップス(後のベイカー・ガーヴィッツ・アーミー)、ギタリストのクリス・スペディング、ドラマーのマーティ・サイモンとシャークスを結成した。とりわけスペディングの趣味の良いギター作品(クロウダディ・リードのレビュー、Bruce Malamut Vol.27、1973年)で、批評家たちに好評だったにもかかわらず、フレイザーはデビュー・アルバム『ファースト・ウォーター』(1973年)の後に脱退した。

その後、アンディ・フレイザー・バンドを結成。これは、ドラムにキム・ターナー、キーボードにニック・ジャッドを迎えたトリオである。彼らは2枚のアルバム『アンディ・フレイザー・バンド』と『...In Your Eyes』をどちらも1975年にリリースしたが、注目はされなかった。フランキー・ミラーとバンドを結成する試みが無に帰すと、フレイザーは作詞作曲に専念するためカリフォルニアへと転居した。彼はロバート・パーマー、ジョー・コッカー、チャカ・カーン、ロッド・スチュワート、ポール・ヤングのヒット曲を作り上げた。

1984年に、フレイザーは自身の新しいアルバムをリリースした。そのアルバム『ファイン・ファイン・ライン』は、元バック・ストリート・クローラーのドラマーであったトニー・ブロウネイジェル、ボブ・マレット(キーボード)、マイケル・トンプソン(ギター)、デイヴィッド・ファラガー(ベース)をフィーチャーし、フレイザーはボーカルを提供した。アルバムの曲の1つである「Do You Love Me」(ベリー・ゴーディ・ジュニアが書いた曲のカバー)は、Billboard Hot 100で5週間チャートインし、1984年3月に82位というピークに達した。

2008年、彼はバラク・オバマをアメリカ合衆国大統領に選出するキャンペーンを支援するために「Obama (Yes We Can)」という曲を書いて歌った。

フレイザーは、2015年3月16日にカリフォルニアの自宅でアテローム性動脈硬化症による心臓発作で亡くなった。娘のハンナ・フレイザーとジャスミン・フレイザー、元妻のヘンリエッタ・フレイザーが遺族として遺された。

引用元:アンディ・フレイザー - Wikipedia














フリー (バンド) - Wikipedia



2024年3月19日火曜日

ポール・コゾフ (フリー、バック・ストリート・クローラー)



3月19日は、イギリスのギタリスト、ポール・コゾフの命日です。1968年に結成された「フリー」や1973年に自身のバンド「バック・ストリート・クローラー」等でブルースを元にしたハードロックギターを得意としたが、1976年3月19日に心臓病により亡くなる。若干25歳だった。

ポール・コゾフ(Paul Kossoff、1950年9月14日 - 1976年3月19日)は、イギリスのギタリスト。イギリスのブルースロック、ハードロック・バンドのフリーのギタリストとして知られ、1969年にフリーのメンバーとしてデビューした。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第51位、2011年の改訂版では削除された。

父親はイギリスで俳優として活動したデヴィッド・コゾフ。裕福な家庭で育った。

父のつてでエンターテイメントの世界に触れるうちにギターを興味を持ち、レッスンを受けたり、楽器店に就職するなどして腕を磨いた。16歳の時にブルース・バンドのブラック・キャット・ボーンズに加入。ここでの演奏をピーター・グリーンに認められ、ブリティッシュ・ブルースシーンでの存在感を高めた。

ポール・ロジャースと知り合ったことをきっかけに、ブラック・キャット・ボーンズを脱退してフリーを結成。「オール・ライト・ナウ」(1970年)などのヒット曲を発表するが、1972年に脱退。

1973年からはバック・ストリート・クローラーとして活動。ソロでもコゾフ名義でアルバムを出している。ドラッグ癖が原因で幾度も生死の境を彷徨うが、1976年に心臓病により夭逝した。

奏法は、ブルースロックを基調としたギターが特徴である。フリーの楽曲「タイム・アウェイ」では約5分間、泣きのギター演奏を確認できる。

引用元:ポール・コゾフ - Wikipedia












フリー (バンド) - Wikipedia 1968-1972





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