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2025年6月18日水曜日

寺内タケシ



6月18日は、日本のギタリストである寺内タケシ(てらうち タケシ)の命日です。主に60年代の全盛期には「エレキの神様」と称され「寺内タケシとブルージーンズ」や「寺内タケシとバニーズ」などを結成し活躍した。2021年6月18日に器質化肺炎のため死去した。82歳没。

寺内 タケシ(てらうち タケシ、本名は同じ読みで「寺内 武」、1939年1月17日 - 2021年6月18日)は、日本のギタリストである。作曲家、編曲家、音楽プロダクション経営者、実業家としての顔を持つ。

茨城県新治郡土浦町祇園町(現・土浦市)出身。

ニックネームは「テリー」「エレキの神様」「寺さん」。

1962年に「寺内タケシとブルージーンズ」を結成。その後バニーズや第二期ブルージーンズなども結成した。1500校を超える高校を回り「ハイスクール・コンサート」を開催。ロシア、アメリカ合衆国、ブラジル、台湾などの各国でも公演を行った。代表曲は『太陽に叫ぼう』(ブルージーンズ)、『太陽の花』『悪魔のベビー』(バニーズ)など。

2021年春に誤嚥性肺炎で入院し順調に回復の途上にあったが、同年6月18日に容態が急変し、同日20時37分、器質化肺炎のため、横浜市内の病院で死去した。82歳没。

引用元:寺内タケシ - Wikipedia























2023年4月20日木曜日

加瀬邦彦 (ザ・ワイルドワンズ)



4月20日は、ミュージシャン(ギタリスト)・作曲家・プロデューサーの加瀬邦彦の命日です。グループサウンズ「ザ・ワイルドワンズ」の活躍で一世を風靡した。2015年4月20日没。74歳。

加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015年4月20日)は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。

慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する。その後ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。1963年には事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入した。

1966年、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった加瀬はブルージーンズを脱退した。

所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「タダで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成、渡辺プロダクションに移籍する。得意の12弦ギター(ヤマハ特注)は、ワイルドワンズ・サウンドの要となる。解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二の音楽プロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。

1981年1月、日本劇場取り壊しに伴う最後の日劇ウエスタンカーニバルにザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚繁樹、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー(加瀬、鳥塚、島、植田)4名でザ・ワイルドワンズを再結成した。一時期、渡辺と共にタイガース・メモリアル・クラブバンドにも在籍した。

“ケネディハウス銀座”のオーナーや、加山雄三&ハイパーランチャーズの音楽プロデューサーとしても活躍した。

1994年に食道癌の手術をしたことを著書で明かしていた。2014年には下咽頭癌を発症し、手術後は自宅療養していた。

2015年4月20日午後9時、自宅にて自殺を図り、死亡した。74歳没。呼吸用のチューブが塞がれた状態で発見された。通夜は同月27日に葬儀委員長をザ・ワイルドワンズのメンバーが務め護国寺で営まれ、音楽仲間の寺内タケシ、高木ブー、中村あゆみ、モト冬樹、エド山口、江木俊夫らが参列した。翌28日葬儀・告別式が営まれ、岸部一徳、森本太郎、瞳みのる、つのだ☆ひろなど関係者300人が参列。仕事の都合で葬儀に参列できなかった加山は音声メッセージで加瀬を哀悼した。戒名は常樂院悠照清邦居士。同年、第57回日本レコード大賞・特別功労賞が贈られた。

引用元:加瀬邦彦 - Wikipedia






ザ・ワイルドワンズ - Wikipedia



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