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2024年11月4日月曜日

西田敏行



11月4日は、俳優・歌手・タレントの西田敏行(にしだ としゆき)の誕生日です。2024年10月17日、虚血性心疾患のため亡くなった。76歳没。

西田 敏行(にしだ としゆき、1947年〈昭和22年〉11月4日 - 2024年〈令和6年〉10月17日)は、日本の俳優、歌手、タレント、司会者。福島県郡山市出身。明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退。身長166cm(公称)、体重80kg超。4歳年下の妻と2女がいる。

株式会社オフィスコバック所属。協同組合日本俳優連合理事長、日本アカデミー賞組織委員会副会長。勲等は旭日小綬章。

1967年(昭和42年)に『渥美清の泣いてたまるか』(TBS)でテレビ俳優としてデビューしている。

1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員となる。

1976年(昭和51年)にレギュラー出演した『いごこち満点』と『三男三女婿一匹』(共にTBS)で注目を集め、森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得した。1977年(昭和52年)には『特捜最前線』(テレビ朝日)、1978年(昭和53年)には『西遊記』(日本テレビ)に重要な役でレギュラー出演した。さらに1980年(昭和55年)には『池中玄太80キロ』(日本テレビ)と『サンキュー先生』(テレビ朝日)で主演を務め、翌1981年(昭和56年)にもNHK大河ドラマ『おんな太閤記』で準主役を務めるなど、連続ドラマに出演した。

また、歌手活動も精力的に行い、1981年(昭和56年)4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ主題歌)は大ヒットとなった。この頃の体重は81kgだった。

素朴で飾り気のないキャラクターやトーク、アドリブの巧さ、コメディアン・エンターテイナーぶりはバラエティ番組やコント番組でも注目され、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』を始め、数多くの番組に出演し、その他司会など、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮している。

1986年(昭和61年)、映画『植村直己物語』の主演を務めた。

1988年(昭和63年)から映画『釣りバカ日誌』シリーズに出演した。三國連太郎とのコンビで、最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、自身の代表作の1つとなった。

2001年(平成13年)、朝日放送テレビ『探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用され、1月26日放送分から2019年11月22日放送分まで、約19年間にわたりレギュラー出演した。

2021年、『池中玄太80キロ』で競演した杉田かおると『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』で再共演することでも話題となる。

2024年(令和6年)10月17日、東京都世田谷区の自宅でベッドで冷たくなっているところを付き人により発見され、死亡が確認された。76歳没。警察での遺体検案の結果を受けて18日に所属事務所がコメントを出し、死因は虚血性心疾患であることを明らかにした。

引用元:西田敏行 - Wikipedia

























2024年6月6日木曜日

堺正章



6月6日は、タレント・歌手・俳優の堺正章(さかい まさあき)の誕生日です。グループサウンズ「ザ・スパイダース」のボーカルとして一世を風靡、後にソロ、タレントや司会業などで活躍。父の堺駿二による出生届の提出が2か月遅れ、戸籍上は8月6日生まれということである。

堺 正章(さかい まさあき、1946年(昭和21年)8月6日 - )は、日本のタレント、歌手、俳優、司会者、ラジオパーソナリティー。本名、栗原 正章(くりはら まさあき)。愛称は「マチャアキ」「堺先生(しゃかい しぇんしぇい)」「巨匠」「Mr.かくし芸」。東京都中野区出身。

エンターテイナー、タレント、歌手など様々な肩書きを持つが、1990年代以降はテレビ番組の司会を中心に活動している。ホリプロを経て、ケイダッシュ・田辺エージェンシー傘下の個人芸能事務所エスダッシュに所属。身長166cm(1972年3月)。

1946年6月6日、堺駿二の次男として東京都世田谷区で生まれる。父の駿二による出生届の提出が2か月遅れ、戸籍上は8月6日生まれである。

5歳の時、父に連れられて撮影所に行ったことをきっかけに子役として映画に出演し、芸能界にデビューする。

1962年、田辺昭知率いる音楽バンド「ザ・スパイダース」に加入し、その後加入した井上順とともにボーカルを担当。「夕陽が泣いている」などがヒットした。

1970年のスパイダース解散後は、ソロで歌手活動を展開したほか、俳優、司会、コメディアンと多方面で活動している。

1970年にスタートした『時間ですよ』に第3シリーズの1973年まで出演し、番組人気と相まって、悠木千帆らとともに俳優としての出世作となった。

1978年から1980年にかけて『西遊記』、『西遊記II』で主役の孫悟空を務め、子どもを中心に大きな人気を集めた。1976年から『新春かくし芸大会』に出演し、毎年玄人はだしの個人芸を習得・披露してエンターテイナーぶりを発揮した。

1969年から1981年までは歌番組「紅白歌のベストテン」、1981年から1986年までは「ザ・トップテン」の司会も務めた。1999年には、かまやつひろし、井上堯之とユニット「ソン・フィルトル」を一時結成し、CDをリリースした。ライブ活動を皮切りに、12月31日にオリジナル曲「Yei Yei」を引っ提げて『第50回NHK紅白歌合戦』に出場した。

2006年の『西遊記』最終回に釈迦役でゲスト出演し、如意棒を手に往年の演武を披露した。

2008年、『無理な恋愛』で、民放の連続ドラマとしては日曜劇場『パパ・サヴァイバル』以来13年ぶりに主演し、主題歌「忘れもの」を歌って1993年発表の「CATCH ME」以来15年ぶりとなるシングルをリリースした。

引用元:堺正章 - Wikipedia





















2022年9月11日日曜日

夏目雅子



9月11日は、女優の夏目雅子の命日です。1985年9月11日没。27歳。

夏目 雅子(なつめ まさこ、1957年(昭和32年)12月17日 - 1985年(昭和60年)9月11日)は、日本の女優。

本名は西山 雅子(にしやま まさこ、旧姓:小達)。神奈川県横浜市中区出身。

夫は作家の伊集院静。弟にプロゴルファーの小達敏昭がいる。其田事務所などに所属していた。

1976年、日本テレビ・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか…』のオーディションで、486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名名義で女優デビューした。この時の演技は57回連続NGを出され、「お嬢さん芸」と言われたほど拙いものであった。

1977年から8年間、山口銀行の広告として起用された。同年にカネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、芸名を夏目雅子へと改名する。「夏目」の芸名は、クッキーフェイスのCMが夏をイメージするものだったことによる。また、ティナ・チャールズが歌う同CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を自ら日本語でカバーし、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりシングルレコードをリリースし、歌手としてデビューした。このときのCMディレクターが、後の夫となる伊集院静だった。

TBSの『すぐやる一家青春記』で連続ドラマに出演したほか、映画『トラック野郎・男一匹桃次郎』のマドンナ・小早川雅子役に抜擢され、映画に初出演した。

1978年、『西遊記』で三蔵法師役を演じ、人気を得る。同じ年には毎日放送の横溝正史シリーズ『悪魔の手毬唄』で準主役。ドラマが好評で夏目の人気が高まり、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、「本格的に女優を目指したい」と本人が直訴して、P&M事務所から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した。以降は女優業が中心となる。

1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。ブルーリボン賞を受賞したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。

1984年、作家の伊集院静と結婚した。

夏目は舞台『愚かな女』(1985年2月3日 - 2月24日、PARCO西武劇場)のヒロイン役に抜擢され、福田陽一郎の演出の下、稽古に積極的に取り組んだ。会期を折り返した2月14日にはついに体調不良を隠せなくなり、公演続行を望む夏目を福田と共演の西岡徳馬が説得し、翌2月15日に慶應義塾大学病院へ入院した。

入院後の検査の結果、急性骨髄性白血病と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院とともに夫の伊集院は、仕事を中断し、亡くなるまで母親らとともに看病にあたった。『愚かな女』は福田の意向で代役は立てられず、千秋楽まで10日ほど残したところで公演が打ち切られた。

約7ヶ月にわたる闘病生活を送りながら順調に回復し、退院間近とされる報道がされていたが、8月下旬から抗がん剤の副作用が原因とみられる肺炎を併発した。高熱が続き、9月8日に熱が一時的に引き、この時に夏目本人は退院できるのではないかというほど回復傾向になったと思われたが、翌9日から再び高熱を発し、9月11日午前10時16分に死去した。27歳没。年齢が若いこともあって病の進行も早かった。臨終の言葉は「は・や・く・・・沼田に帰りたい」だった。

遺作は『北の螢』であった。

引用元:夏目雅子 - Wikipedia











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