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2025年1月10日金曜日

佐良直美



1月10日は、歌手・女優・タレント・実業家の佐良直美(さがら なおみ)の誕生日です。1967年5月に「世界は二人のために」でレコードデビュー、120万枚売り上げの大ヒット。その後女優として石井ふく子組の一員として多数のドラマに出演。1980年のスキャンダルの影響で芸能活動を長期休業し実業家へ転身した。近年ではCD発売したりYouTube更新もされているようだ。

佐良 直美(さがら なおみ、1945年1月10日 - )は、日本の女性歌手・タレント・女優・作曲家である。現在は主に実業家として活動する。本名:山口直子。出生名は川田 納堡子(かわだ なほこ)だが、幼少期に両親が離婚。母方の祖父母の養女となり、山口姓となる。現在は戸籍名を芸名と同じく佐良直美に改名している。日本芸術専門学校特別講師。

1967年5月には作曲家いずみたくが主宰する芸能事務所「株式会社オールスタッフプロダクション」に所属し、日本ビクターより「世界は二人のために」でレコードデビュー。120万枚を売り上げ、第9回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、同年の第18回NHK紅白歌合戦(NHK総合・ラジオ第1、#NHK紅白歌合戦出場歴参照)に初出場する。「世界は二人のために」は翌1968年、第40回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に採用された。

1969年に「いいじゃないの幸せならば」で第11回日本レコード大賞を受賞し、女性歌手初の日本レコード大賞新人賞・大賞受賞者となる。1970年に芸術選奨新人賞を受賞する。

1971年にオールスタッフプロダクションから独立し、(株)佐良直美音楽事務所を設立する。

歌手としてだけでなく、作曲(テレビドラマの音楽も担当)、タレントとしてのバラエティー番組への出演やテレビ番組の司会、女優としても石井ふく子組の一員として『ありがとう』(TBS)に出演するなど、多方面で活躍した。

1980年にタレントのキャッシーとのスキャンダル報道がされて以後は、次第に芸能活動から遠ざかり、同年のNHK紅白歌合戦も落選した。

歌手活動は、1983年9月21日に発売したEP「YASUKOの場合/夕顔」が昭和時代最後のレコード発売となった。

1987年ごろから歌手業を含めた芸能活動を長期休業し、実業家へ転身した。

1993年から栃木県那須塩原市で家庭犬のしつけ教室『アニマルファンスィアーズクラブ (AFC)』を主宰する。

2010年9月24日、新聞で27年ぶりに歌手復帰することが報じられた。平成時代に入ってからは自身初の、CDシングル「いのちの木陰」を2010年11月24日に発売する。

2013年3月20日、2年半ぶりとなる新曲「お・か・え・り」が発売。

2022年11月25日より自身のYouTubeチャンネル『佐良直美のいいじゃないの幸せならば』を開設し、現在の生活ぶりやステージの様子、芸能界での思い出話などの動画を配信開始。

引用元:佐良直美 - Wikipedia

























2024年3月16日土曜日

京塚昌子



3月16日は、女優の京塚昌子(きょうづか まさこ)の誕生日です。その役柄的に「恰幅が良く、割烹着が似合う母親役」が多かったため、「日本のお母さん」と呼ばれた。1994年9月23日没。64歳。

京塚 昌子(きょうづか まさこ、1930年3月16日 - 1994年9月23日)は、日本の女優。第10回芸術祭賞奨励賞受賞。

東京都出身。1946年、疎開先の佐野高等女学校(現・栃木県立佐野女子高等学校)卒業。高校卒業後、新派へ入団して研究生となる。

川口松太郎に認められて、1955年「月夜鴉」で初めて主役を演じ、同年「離れ猪」「太夫さん」の演技で芸術祭奨励賞を受賞。

1959年(昭和34年)8月23日から1972年(昭和47年)2月6日まで放映されたTBSテレビ系列の東芝日曜劇場人気シリーズ『カミさんと私』で伊志井寛の相手役として人気を博す。

1963年には東宝演劇部入りして、舞台「マイ・フェア・レディ」などに出演。

1968年、伊志井の娘である石井ふく子プロデュース作品『肝っ玉かあさん』で、蕎麦屋を切り盛りするしっかり者で涙もろい母親役を好演。『ありがとう』(第4シリーズ)などでも佐良直美の母親役を演じ、1970年代のテレビ業界において、「恰幅が良く、割烹着が似合う母親役」で絶大な人気を誇った。

京塚は森光子や加藤治子や山岡久乃らとともに、「日本を代表するお母さん女優」と呼ばれ、CMにも起用されていた。

上記の石井プロデュース作品が当たり役となったことから、「石井組(ファミリー)」の一員に数えられていた。

1971年に糖尿病を患い、1983年に公演先の愛媛県松山市で脳梗塞で倒れる。1984年から1985年にかけては後遺症に耐えながら、一度は復帰したものの症状が悪化。

1986年4月には「体調が不本意なため、納得のできる仕事ができない」と休業宣言し、山梨県甲府市の病院に入院した。その後は静岡県、長野県と各地の病院を転々として晩年は長い闘病生活を送り、事実上の芸能界引退状態となった。

1994年9月23日午後7時過ぎ、東京・田町の病院の一室で、心不全のため死去。64歳没。

母親役のイメージが強いが、私生活では数々の浮名を流し、一時は同棲していたこともあった。戸籍上は独身を貫いた。

若い頃はスレンダーな美人だったが20代の頃、盲腸の手術をしたことで体質が変わり、どんどん太り始めたという。

引用元:京塚昌子 - Wikipedia



















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