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2025年7月16日水曜日

松本隆 (作詞家・元 はっぴいえんど・ドラマー)



7月16日は、作詞家でミュージシャン、70年代に活躍したロックバンド「はっぴいえんど」のドラマーだった、松本隆(まつもと たかし)の誕生日です。はっぴいえんど解散後はムーンライダーズ(オリジナル・ムーンライダーズ)として活動する傍ら、作詞家兼音楽プロデューサー業を始める。太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」の大ヒットにより作詞家として注目される。

松本 隆(まつもと たかし、1949年7月16日 - )は、日本の作詞家、ミュージシャン。ロックバンドはっぴいえんどの元ドラマー。東京都出身、兵庫県神戸市と京都府京都市左京区の二拠点生活

1968年に細野晴臣が掛け持ちしていたバンド「バーンズ」のドラマーとして活動中に小坂忠、柳田博義、菊池英二らに細野とともに誘われエイプリル・フールを結成(当時は「松本零」名義)した。この時期に常に本を持ち歩いていて文学青年に見えたことから、細野より「松本、詞を書け」といわれ作詞を担当するようになる。エイプリル・フールが短期間で解散した後、細野、大瀧詠一、鈴木茂と「ヴァレンタイン・ブルー(後のはっぴいえんど)」を結成した。松本が出演したラジオ番組によれば、作詞は細野から「こんな詩を書け」といわれて渡された輸入盤レコードの歌詞を大学の友人に訳してもらい、自分なりに似せて作ったところから始まったという。

はっぴいえんど在籍中は、つげ義春や永島慎二など『ガロ』系漫画や渡辺武信の現代詩に影響を受けた独特の作風で、都市に暮らす人々の心象風景を「ですます」調で描き、一部に熱狂的支持者を生むとともに、日本語ロック論争の発端となった。また、メンバーにはそれぞれ別名があり、松本は「江戸門弾鉄」名義で初期の大瀧のソロ曲の作詞も担当した。五つの赤い風船の「えんだん」で初めて、他のミュージシャンに詞を提供した。

はっぴいえんど解散後はムーンライダーズ(オリジナル・ムーンライダーズ)として活動する傍ら、作詞家兼音楽プロデューサー業を始める。しかしプロデュース第一作の南佳孝の『摩天楼のヒロイン』完成後に、南から「(歌詞が松本隆の世界すぎて)これはあなたのアルバムだ」と言われ、音楽プロデューサーとしての情熱を失ったという。その後、あがた森魚の『噫無情(レ・ミゼラブル)』、岡林信康の『金色のライオン』などのアルバムのプロデュースも行ったが、それ以降プロデューサー業からは退き、またオリジナルムーンライダーズからも脱退し、作詞家としての活動に専念することになった。

1970年代後半までに手掛けた特筆すべき仕事は、1975年の「木綿のハンカチーフ」の作詞ぐらいであるが、1978年に一連の原田真二作品の作詞を手掛けて世間に知られるようになった。松本自身、「1970年代後半は歌謡曲の駆け出し。駆け出しといっても、78年頃にはトップの方にいた」と述べている。

筒美京平とのコンビで中原理恵「東京ららばい」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」など、合計約380作品を手掛ける一方、1980年代よりはっぴいえんど時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメーカーとしての快進撃が始まる。ミリオンセラーとなった細野とのイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」や大瀧の大ヒット・アルバム『A LONG VACATION』、第23回日本レコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」、そして松田聖子の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、阿久悠に代わり歌謡界で一時代を築き上げた。松田聖子についてはプロデューサーの若松宗雄、編曲の大村雅朗とともに「聖子プロジェクト」の主要メンバーとして聖子を支え、松本の人脈を活かして作曲家を起用するなど、作詞家の範疇を超え総合的な曲のプロデュースに関わっていた。歌謡曲における“松本・筒美”コンビの名は後に伝説と化す。

その後も薬師丸ひろ子、斉藤由貴、中山美穂、C-C-Bなど多数のアイドル、アーティストに詞を提供したが、1989年に一時作詞家としての活動を「休憩」。1994年に本格的に作詞活動を再開するまでの間は能・歌舞伎・オペラ・クラシックなどの「古典」にはまり、1992年にはフランツ・シューベルト『冬の旅』の現代口語訳を手掛けた。

作詞以外の文筆活動も行っており、代表作ともいえる私小説『微熱少年』は、自身が監督して映画化された。これは作詞を担当した鈴木茂の曲と同名タイトルである。

現在は自主レーベル「風待レコード」を設立し若手の育成に努めている。また、ドラマ『のだめカンタービレ』では松田聖子の「ピンクのモーツァルト」が引用され、アニメ『マクロスF』の挿入歌「星間飛行」のヒットなどで新たな世代に存在を示しファン層を拡げた。

引用元:松本隆 - Wikipedia


















はっぴいえんど - Wikipedia



2025年4月29日火曜日

小坂忠



4月29日は、シンガーソングライター・ゴスペルシンガー・牧師の小坂忠(こさか ちゅう)の命日です。1966年、GSバンド「ザ・フローラル」を結成、ボーカルで活動。1969年に細野晴臣、松本隆が参加、「エイプリル・フール」に改名。1972年、林立夫、松任谷正隆、後藤次利、駒沢裕城と「小坂忠とフォージョー・ハーフ」を結成。他に「ティン・パン・アレー」とのコラボレーションでもお馴染み。日本のロック界に多大なる功績を残す。1976年にクリスチャンとなり以降ゴスペルシンガーとして活動。2022年4月29日、癌により死去。73歳没。

小坂 忠(こさか ちゅう、1948年7月8日 - 2022年4月29日)は、日本のシンガーソングライター、作曲家、ゴスペルシンガー、牧師。本名は小坂 正行(こさか まさゆき)。

東京都練馬区出身、埼玉県志木市生まれ。1966年、GSバンド「ザ・フローラル」を結成。モンキーズ・ファンクラブ日本支部が公募したオーディションに合格し、1968年に日本コロムビアより小坂忠(ヴォーカル)に柳田ヒロ(キーボード、ギター)、杉山喜一(ベース)、義村康市(ドラム)、菊池英二(ギター)といったメンバーでデビューし、シングル2枚を残したが、GS人気の翳りから事務所はGSバンドから本格的なロックバンドに転換することとし、付いていけなかった杉山と義村が脱退。

1969年、杉山と義村が抜けたフローラルにスカウトで細野晴臣、松本隆が参加、細野のアイデアで「エイプリル・フール」と名前を変え活動開始、アルバム「APRYL FOOL」を残す。エイプリル・フール解散後、ロックミュージカル「HAIR」出演。この出演により、はっぴいえんどの前身バンド「ヴァレンタイン・ブルー」への参加を断念。

1971年、村井邦彦、川添象郎、ミッキー・カーチスらが設立したマッシュルーム・レーベルよりソロアルバム『ありがとう』をリリース。同年11月6日、高叡華と結婚。

1972年、林立夫、松任谷正隆、後藤次利、駒沢裕城と「小坂忠とフォージョー・ハーフ」を結成。その他、CM音楽やNHK「おかあさんといっしょ」の作曲も手掛ける。

1975年、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆を中心に結成されたティン・パン・アレーの演奏によるオリジナルアルバム『HORO』リリース。

1976年、2歳の娘(小坂亜実/Asiah)が重度の火傷から奇跡的に回復したことを機に、クリスチャンとなる。

1978年、日本初のゴスペルレコード会社「ミクタムレコード」設立。ゴスペル・シンガーとして活動の場を移す。

1991年、埼玉県所沢市の日本フォースクエア福音教団秋津福音教会の牧師になる。

2000年、「Tin Pan」名義で再結成したティン・パン・アレーのコンサートにゲスト出演。25年ぶりの共演となった。

2001年、11月、25年ぶりとなる細野のプロデュースによるアルバム『People』をリリース。

2022年4月29日午前10時43分に死去したことが公式サイトにて報告された。S字結腸癌から転移した癌による肝不全も患い、5年に及ぶ闘病生活を送っていた。73歳没。

引用元:小坂忠 - Wikipedia








エイプリル・フール (バンド) - Wikipedia













2021年7月9日金曜日

細野晴臣



7月9日は、ミュージシャン(主にベース)・シンガーソングライター・プロデューサーである、細野晴臣の誕生日です。

細野 晴臣(ほその はるおみ、1947年7月9日 - )は、日本のミュージシャン。

立教大学在学中にベースをはじめ、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャーデビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成し、細野本人は当初、日本語でロックを歌うことに反対していたが、結果として日本語ロックの礎を築く。1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と並行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実などのプロデュースも行う。

シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていった1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ (Y.M.O.) を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、1980年にはその活動がブームを巻き起こす。Y.M.O.の成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「YEN」の高橋との共同による立ち上げなど個人としても精力的に活動を行う。また、ヴィデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース、ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけを作った。

Y.M.O.時代からの多忙と、日本のバブル崩壊以前の消費社会に対する疲弊に辟易とした後、1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに深くアプローチし、大量消費に頼らない音楽を模索した。

引用元:細野晴臣 - Wikipedia





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