2025年3月16日日曜日

アンディ・フレイザー (フリー、アンディ・フレイザー・バンド)



3月16日は、イングランド出身のソングライター・ベーシストのアンディ・フレイザー(Andy Fraser)の命日です。1968年に15歳で加入したロックバンド「フリー」での活動が最も有名。2015年3月16日に自宅でアテローム性動脈硬化症による心臓発作で亡くなった。62歳没。

アンディ・フレイザー(Andy Fraser、1952年7月3日 - 2015年3月16日)は、イングランドのソングライターにしてベーシストである。そのキャリアは40年以上にわたり、1968年に15歳で見出されて加入したロック・バンド、フリーのメンバーとなった2度の期間が含まれている。

フレイザーはロンドン中心部のパディントン地区で生まれ、5歳でピアノを始めた。ギターに切り替えた12歳まではクラシックを学ばされていた。13歳に至るまでに、イーストエンドのウェスト・インディアンにある複数のクラブで演奏するようになり、1968年に15歳で退学となった後、ハマースミス継続教育大学に入学した。そこで、同じ学生であったサッフォ・コーナーが彼女の父親に紹介し、ブルースの先駆者でラジオ・パーソナリティーでもあったアレクシス・コーナーが、彼にとって父親的存在となった。その後まもなく、ベーシストを探していたジョン・メイオールから電話を受けたコーナーは、フレイザーを提案した。当時まだ15歳で、プロのバンドに所属して、週に50ポンドを稼ぐこととなったが、最終的には短い在籍期間であることが判明した。

コーナーはまた、ポール・ロジャース(ボーカル)、ポール・コゾフ(ギター)、サイモン・カーク(ドラム)で構成された影響力のあるバンド、フリーへと向かうフレイザーの次の動きに尽力した。フレイザーは、ロジャースと「オール・ライト・ナウ」をプロデュースして共同で作曲。これが、20以上の地域でナンバー1ヒット曲となり、1989年後半までにアメリカで100万回以上のラジオ・プレイを獲得したことが、1990年にASCAPから認められた。2006年10月、「オール・ライト・ナウ」が300万回以上もラジオやテレビ番組で流されたとして、BMIのロンドン・ミリオン・エア・アワードがロジャースとフレイザーに与えられた。

フリーを脱退した後、フレイザーはボーカリストのスニップス(後のベイカー・ガーヴィッツ・アーミー)、ギタリストのクリス・スペディング、ドラマーのマーティ・サイモンとシャークスを結成した。とりわけスペディングの趣味の良いギター作品(クロウダディ・リードのレビュー、Bruce Malamut Vol.27、1973年)で、批評家たちに好評だったにもかかわらず、フレイザーはデビュー・アルバム『ファースト・ウォーター』(1973年)の後に脱退した。

その後、アンディ・フレイザー・バンドを結成。これは、ドラムにキム・ターナー、キーボードにニック・ジャッドを迎えたトリオである。彼らは2枚のアルバム『アンディ・フレイザー・バンド』と『...In Your Eyes』をどちらも1975年にリリースしたが、注目はされなかった。フランキー・ミラーとバンドを結成する試みが無に帰すと、フレイザーは作詞作曲に専念するためカリフォルニアへと転居した。彼はロバート・パーマー、ジョー・コッカー、チャカ・カーン、ロッド・スチュワート、ポール・ヤングのヒット曲を作り上げた。

1984年に、フレイザーは自身の新しいアルバムをリリースした。そのアルバム『ファイン・ファイン・ライン』は、元バック・ストリート・クローラーのドラマーであったトニー・ブロウネイジェル、ボブ・マレット(キーボード)、マイケル・トンプソン(ギター)、デイヴィッド・ファラガー(ベース)をフィーチャーし、フレイザーはボーカルを提供した。アルバムの曲の1つである「Do You Love Me」(ベリー・ゴーディ・ジュニアが書いた曲のカバー)は、Billboard Hot 100で5週間チャートインし、1984年3月に82位というピークに達した。

2008年、彼はバラク・オバマをアメリカ合衆国大統領に選出するキャンペーンを支援するために「Obama (Yes We Can)」という曲を書いて歌った。

フレイザーは、2015年3月16日にカリフォルニアの自宅でアテローム性動脈硬化症による心臓発作で亡くなった。娘のハンナ・フレイザーとジャスミン・フレイザー、元妻のヘンリエッタ・フレイザーが遺族として遺された。

引用元:アンディ・フレイザー - Wikipedia














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