2024年3月29日金曜日

成毛滋 (フライド・エッグ、ストロベリー・パス、ザ・フィンガーズ)



3月29日は、1960年代後半から1970年代前半までの日本のロックの礎を築いたギタリスト・キーボーディスト、成毛滋(なるも しげる)の命日です。「ザ・フィンガーズ」「ストロベリー・パス」「フライド・エッグ」などのバンドに在籍。2007年3月29日、大腸がんのため死去。60歳没。

成毛 滋(なるも しげる、1947年〈昭和22年〉1月29日 - 2007年〈平成19年〉3月29日)は日本のギタリスト、キーボーディスト。東京都出身。1960年代後半から1970年代を中心として国内のロックシーンで活躍。

ブリヂストン創業者である石橋正二郎の孫で父親は同社副社長、妹は漫画家の成毛厚子(1952年10月16日 - )。鳩山威一郎の甥で、鳩山由紀夫・邦夫兄弟は従兄弟。

2007年3月29日、大腸がんのため死去。享年60。

成毛がベンチャーズのナンバーを練習中に、ギターの弦を上に押し上げてピッチを高くする奏法(ベンディング)の存在に気づく(ただしこの奏法は成毛以前から広く使用されている)。メンバーたちはそのことに感激し、バンド名を当初「フィンガー・ビブラーツ」としようとしたが、バンド名が長いことや、ちょうど人数が五人であったこともあり、「ザ・フィンガーズ」に落ち着いた。

彼らはエレキ・インストバンドとして実力をつけ、高い人気と演奏力を得た。1966年にはフジテレビの『勝ち抜きエレキ合戦』に出場。四週連続で勝ち抜き、グランド・チャンピオンとなる。さらに、同年の「歴代グランド・チャンピオン大会」でも優勝し、全国にその実力を見せ付けた。ここでの成毛は当時としては驚異的な早弾きをこなしてみせ、他のギタリスト達を愕然とさせた。

このバンドは大学卒業間際になったメンバー達が就職とプロの道に分かれ、残ったメンバー(成毛、高橋、蓮見)がシー・ユー・チェンら新メンバーを加えて石井好子の音楽事務所と契約。1967年末にプロデビューを果たす。成毛にとってはこれが最初のプロキャリアである。

しかし、成毛は事務所からギターを弾くことを禁じられ、キーボードの担当を命じられた。それまでキーボードの経験が無かった彼は苦戦するが、この時の経験がのちのキーボーディストとしての才能につながっていく。

1970年、当時ザ・ゴールデン・カップスに在籍していた柳ジョージと渡辺貞夫カルテット、フード・ブレインに在籍していた角田ヒロとともに「ジプシー・アイズ」を結成。学園祭や日比谷野外音楽堂などでステージに臨んでいた。

本格的に活動を開始したストロベリー・パスは、ライブ活動と並行してアルバムの制作を行い、1971年6月25日に『大烏が地球にやってきた日』をリリース。このとき成毛は左手でギター、右手でキーボード、足でキーボードのフットペダルを使いベースラインを弾いていた。また、ピンク・フロイド初来日となった伝説のイベントである「箱根アフロディーテ」にも日本勢としてモップスらとともに出演。その際に臨時のベーシストとして迎えたのが当時17歳であった高中正義である。そのステージの1ヵ月後、その高中が正式に加入し、フライド・エッグへと発展。

1982年より1991年にかけてラジオ番組「パープルエクスプレス」においてギター講座を展開する。

文化放送の「パープルエクスプレス」というギター講座番組では“ドクター・シーゲル”として出演し、このとき実際に成毛が弾いているエレクトリック・ギターの教則ビデオも発売された。

晩年の成毛は、フィンガーズ時代のドラムス朝吹誠、ゴールデン・カップスのマモル・マヌーなどと赤坂にあるエルカミーノというライブハウスでベンチャーズやシャドウズのナンバーを演奏し、時々来店していたノーキー・エドワーズが飛び入りで共演した。TICの名付け親であるフィンガーズ時代のベース斎藤茂一も呼んで自らが事務局役を担い、TICの同窓会兼演奏会を最期まで毎年主催した。2007年3月29日、大腸がんのため死去。

引用元:成毛滋 - Wikipedia



















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