12月10日は、アメリカのミュージシャンである、オーティス・レディングの命日です。1967年12月10日没。26歳。
オーティス・レイ・レディング・ジュニア(Otis Ray Redding Jr.、1941年9月9日 - 1967年12月10日)は、アメリカのミュージシャン。独特の歌唱法でソウルに多大な影響を与えた。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第8位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第21位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第4位。
1960年代初頭にジョニー・ジェンキンズのパイントッパーズで音楽活動を始め、ソロ・シンガーとして契約後1962年に「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」を発表(R&Bのチャートで最高位20位、Billboard Hot 100で85位と人気を博す)、この歌をきっかけに1964年スタックス傘下のヴォルトからアルバム『ペイン・イン・マイ・ハート』を発表、アメリカ国内でアトランティック・レコードのもとで全国流通を果たす。同年、ブッカー・T&ザ・MG'sのスティーヴ・クロッパーと共同制作した「ミスター・ピティフル」は、R&Bシングル・チャートで最高位10位、Billboard Hot 100で41位となるヒットとなった。生前のシングルレコードで最も評判を呼んだのは、ジェリー・バトラーとの「愛しすぎて」で、R&Bのシングル・チャートで2位を記録して彼のキャリアの中で最も高い評価を得る作品となり、続く「リスペクト」(後にアレサ・フランクリンによるカヴァーが大ヒットする)はR&Bチャートで4位を記録した。その後、「アイ・キャント・ターン・ユー・ルース」、「サティスファクション」(ローリング・ストーンズのカバー)といった曲がヒットして、古いラブ・ソングをカバーした「トライ・ア・リトル・テンダネス」は、1966年の代表曲となった。
1967年12月10日、オーティス・レディングとバーケイズのメンバー5人、マネージャー及びパイロットの8名の乗った双発機「ビーチクラフト モデル 18」が、次の公演地であるウィスコンシン州マディソンに向かう途中、濃霧で滑走路を見失い近くの凍結したモノナ湖 スコーベイエリアに墜落。トランペットのベン・コーリーを除く7人が死亡した。盟友のジェームズ・ブラウンは、自家用飛行機で移動する事の危惧を訴えていたという。
事故の3日前に録音された「ドック・オブ・ベイ」は、翌年のビルボードで、1968年3月16日に週間ランキング第1位を獲得し、オーティスにとって唯一のビルボード誌週間ランキング第1位の曲となった。それまでの曲調とは違うため、スタックス側やベーシストのドナルド・ダック・ダンは戸惑っていたが、本人がシングル化をレコーディング中に望んでおり、「俺の初めてのナンバー・ワン・ソングになるぜ」と語っている。