2025年4月25日金曜日

富永一朗



4月25日は、漫画家の富永一朗(とみなが いちろう)の誕生日です。ジャンル的には所謂「ギャグ漫画」というものだが、何よりテレビ番組「お笑いマンガ道場」にレギュラー出演していたことが最も有名だろう。2021年5月5日、老衰のため自宅にて死去。96歳没。

富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - 2021年5月5日)は、日本の漫画家。勲等は勲四等。称号は岡山県高梁市(旧:川上郡川上町)名誉市民。

1951年4月に教職を辞して上京し、母が洋裁の仕事をしていた代田橋の母子寮に潜り込み、帝国興信所の臨時雇いとして会社年鑑の編纂をしながら『サンデー毎日』に漫画を投稿。当時、新富町の帝国興信所の向かいに新太陽社(旧・モダン日本社)があったため『モダン日本』編集部に作品を持ち込んだところ、編集者時代の吉行淳之介から才能を認められ、後に吉行が移った三世社の『講談讀切倶楽部』に作品を多数掲載された。

1953年頃から「赤本」と呼ばれた子供向け漫画単行本や貸本漫画を描くようになる。このころの作品に『少年姿三四郎』(きんらん社、1954年-1955年)、『夕月の母』(きんらん社、1956年)、『ルリ子の歌』(きんらん社、1956年)などがあり、これら子供向けの作品と併行して大人向けの漫画も描き続けた。1955年に母方の従姉と結婚し、世田谷区赤堤に新居を持つ。

1958年、新聞記者の紹介で近所の杉浦幸雄を訪問して『週刊大衆』に連載していた『ゴンさん』の原稿を見せたところ、才能を認められ、『漫画サンデー』の編集者・峯島正行に紹介されて連載のチャンスを得て、下積み生活から脱出。この『ゴンさん』は、1ページあたり3本の4コマ漫画を複数ページにわたり掲載した、現在の4コマ漫画の雑誌連載形態として一般的なものであるが、富永本人は「この方式は僕が初めてではないか」と語っている。35歳の時に描き始めた『チンコロ姐ちゃん』が代表作となったが、女性の裸など下ネタを堂々と扱う作風が一部で嫌悪され、新聞紙上で「日本マンガの堕落」(伊藤逸平)と批判されたこともある。

週刊誌の創刊ブームが追い風となって人気を獲得したが、仕事を断れない性格が災いし、やがて同時に25本の連載を抱えるにいたった。杉浦と近藤日出造が「あのままじゃ、あいつは死んでしまう」と案じ、『ポンコツおやじ』を連載していた『漫画サンデー』に富永の原稿料を4倍与えさせ、代わりに富永に「他の類似漫画誌には描かない」と確約させた。これは雑誌連載漫画における専属契約システムの嚆矢とされる。1962年11月に、杉浦や近藤が率いる漫画家グループ「漫画集団」に加入。

1976年より1994年まで放送された長寿番組、『お笑いマンガ道場』にレギュラー出演。番組中で共演者の鈴木義司に「オバケナマコ」「デブの恵まれない人」「サンショウウオ」「タラバカガニ」などとこき下ろされる一方、鈴木を「土管に住んでいる貧乏人」「ケムシ・ミノムシ」「アホウドリ」(実在のそれではない。首だけ鈴木の架空の鳥)などとこき下ろし、そのやりとりで人気を博した(実際は富永は鈴木とは互いに盟友と公言してはばからないほどの数十年来の友人同士であり、鈴木に誘われてマンガ道場に出演したため、鈴木が亡くなった時富永は「元気になったらまた一緒に『マンガ道場』でもやろうぜと言ってたのに…」と肩を落とした)。同番組のエンディングでほかの出演者と一緒に手を振ったときに、富永だけはいつも手を斜め前に(ナチス式敬礼の様に)上げただけで、掌を振る仕草は見られなかった。手を振らなかった理由について富永は、「母親から『男が手を振ることはみっともない』、『男はいつもピシッとしてなさい』と言われていたため、いつもピシッと手を挙げている」と語っていた。

1992年に紫綬褒章、1998年に勲四等旭日小綬章を受章。

恰幅いい体型がトレードマークだったが、還暦を超えて糖尿病と診断され、一転生活を改めた。「健康じいさん」を自称し、模範患者として医療関係のシンポジウムや講演を通じて啓発活動を行い、闘病記も著した。近時は各種マンガ・絵画コンテストの審査員などを務めていた。

歌をうたうのが大好きで、「一日うちにいるとまず30曲は歌います」という。

生前寿陵墓をすがも平和霊苑内に建立している。自らのキャラクターであるチンコロ姐ちゃんが花を手向けている絵が彫刻されている。

2021年5月5日15時30分、老衰のため東京都世田谷区の自宅にて死去。96歳没。先述の妻との間に子はおらず、2002年に死別後はひとり暮らしをしていた。墓所は豊島区功徳院すがも平和霊苑。

引用元:富永一朗 - Wikipedia












お笑いマンガ道場 - Wikipedia



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