2月2日は、イングランドのパンクバンド「セックス・ピストルズ」のベーシストとして知られる、シド・ヴィシャスの命日です。1979年2月2日没。21歳。
シド・ヴィシャス (シド・ビシャス、Sid Vicious 1957年5月10日 - 1979年2月2日)は、イングランド出身のパンクロッカー。
同国のパンクバンド「セックス・ピストルズ」のメンバーとして知られる。バンド解散後に若くして他界した。そのカリスマ性と過激なパフォーマンスに人々は魅了され、波乱に満ちた生涯がパンク・ムーブメントの伝説として語り継がれた。
「ヴィシャス」という芸名は、スティーヴ・ジョーンズが昔飼っていたハムスターの名前が由来。しかし後年、ロットンは「シド・ヴィシャスの元祖はピンク・フロイドのシド・バレットなんだ。由緒正しい名をヤツに受け継がせたんだ」と述べている(シド・バレットが“シド・ヴィシャス”と本当に呼ばれていたかは不明)。
元々彼は、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人であり、ファンの頃からピストルズのライブ中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者をベルト代わりにつけていた自転車のチェーンで殴るなど、目立った存在だった。同時期に「ポゴダンス」(ライブで垂直にぴょんぴょんジャンプする事)を発明している。(シド曰く、発明した理由は「ライブ会場にいる敵をつぶすためにジャンプして上から潰す!」という事らしい。)
ヴィシャスとジョニー・ロットンはファッション関係の専門学校時代からの友人でもあった。その縁もあって初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックがセックス・ピストルズを脱退すると、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラーレンの誘いがあって、後任のベーシストとなった。
ジョニー・ロットンが脱退後、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのパンクバージョンを収録したシングルをリリース。シドの死後にリリースされたライブ・アルバム『シド・シングス』には、「マイ・ウェイ」のスタジオ録音バージョンも収録された。
セックス・ピストルズにおける音楽活動の最後は「ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル」における収録である。 この収録に際してもパリでのMY WAYの撮影時に既にシドは普通に行動するのも困難な状態なまでヘロインによって蝕まれており、体は痩せ細り衰弱しており、歌詞を覚えさせて1曲を収録するのに1週間近くかかった。
1978年10月13日には、ニューヨークにあるチェルシーホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。真相は明らかでないが、凶器のナイフがシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したと言われている。
警察には逮捕されるものの、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。その後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした末、1979年2月2日、遂に麻薬の過剰摂取により死亡した。シドが死に至った直接的な理由は、収監され完全にヘロインが抜けきった体に、高純度のヘロインを収監以前に打っていたのと同じ感覚で大量に摂取した事によるもの。そのヘロインは、その夜、シドに哀願された、彼の母親が渡した物だった。
シドとナンシー・スパンゲン(左)