4月30日は、オーストリア出身のレーシングドライバー、1994年にF1でも走ったが第3戦サンマリノGPにてクラッシュにより命を落とした、ローランド・ラッツェンバーガーの命日です。1994年4月30日没。33歳。
ローランド・ラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger, 1960年7月4日 - 1994年4月30日)は、オーストリア出身のレーシングドライバー。日本では「ラッツェンさん」の愛称で親しまれていた。ドイツ語ではローラント・ラッツェンベルガーと発音する。
事故が起きた予選終了後に行われたインタビューにおいて、後述のヴィルヌーヴやアーバイン、マルティニ、クロスノフ、サロと同様に全日本F3000時代親交のあったハインツ=ハラルド・フレンツェンとジョニー・ハーバート、最後のチームメイトとなったデビッド・ブラバム、同郷で非常に仲が良かったというゲルハルト・ベルガー(後に葬儀へも参列)、ウイリアムズのアイルトン・セナ(自身も直後の決勝レース中の事故で他界)とデイモン・ヒルらドライバーをはじめ、チーム代表のニック・ワースが哀悼の意を表している。そしてシムテックチームは「レースに全てを捧げたローランドの遺志に応えたい」として、チーム全員が喪章を腕に決勝レースへ臨んだ。
事故死の前年まで日本を主体に活動し、その期間も4年と比較的長かったことから、突然の訃報は日本国内のレース関係者やファンにも大きな衝撃を与えた。全日本F3000選手権等で対戦した星野一義は、アイルトン・セナの事故死についてコメントを求められた際、「自身としては、セナ以上にラッツェンの死がショック。去年まで同じレースで闘った仲間だから」と語っている(「オートスポーツ」誌より)。
また日本で知り合ったジャック・ヴィルヌーヴ(1992年の全日本F3選手権に参戦)も、後年に「セナだけじゃない、ローランドのことも思い出して欲しい」「ローランドとは親友だったが、セナとは会ったことすらない。何故親友を無視して赤の他人の死を悲しまなければならないのか」等、その扱われ方の余りの違いに憤る発言をしている。
没年となった1994年は、ル・マン24時間レースにサード・トヨタから出場する予定だった。チームは、ラッツェンバーガーの友人だったエディ・アーバインを急遽代役として起用して参戦、マシンには実際に出場したアーバイン、マウロ・マルティニ、ジェフ・クロスノフの三人の名に並び、ラッツェンバーガーの名もプリントされていた。
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