2024年12月4日水曜日

宮村優子 (声優)



12月4日は、声優・女優・歌手の宮村優子(みやむら ゆうこ)の誕生日です。愛称は「みやむー」。声優として「新世紀エヴァンゲリオン」の惣流・アスカ・ラングレー役が一般的に最も有名。女優としても活動する。

宮村 優子(みやむら ゆうこ、1972年12月4日 - )は、日本の声優、女優、歌手。兵庫県神戸市出身。JAEプロモーション所属。

芝居が好きだったため、高校時代に演劇部に所属し、高校卒業後、桐朋学園短期大学演劇科で演劇を勉強をしていた。卒業後は日本ナレーション演技研究所に入所。ゲーム『拳聖土竜』の春麗役で声優デビュー。アニメでのデビューは『勇者警察ジェイデッカー』第23話のフェイ役のテスト出演を経た後、レジーナ・アルジーン役でレギュラーとなる。

声優を目指したのは大学の進路指導の講師が、きっかけで、大学の進路指導で、皆が「劇団入る」、「プロダクション入る」と言っており、担当の講師が劇団青年座の関係者だったという。

入団したかった劇団の入団テストに落選したこともあり、舞台の仕事より声の仕事の割合が徐々に増えていったという。

アーツビジョン所属を経て、ジャパンアクションエンタープライズ (JAE) の俳優部門「JAEプロモーション」と業務提携。

1995年に『愛天使伝説ウェディングピーチ』の珠野ひなぎく(エンジェルデイジー)役、『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレー役で有名になる。

1999年に漫画家のナカタニD.と結婚したが、翌年に離婚。

2004年に同じJAE所属の男性スタントマン・関隆行と再婚。2007年にオーストラリアへ移住している。

2006年より大阪北堀江にある放送芸術学院の併設校「大阪アニメーションスクール」でアフレコの授業を担当した。

2016年に関隆行と離婚。親権は宮村が持つこととなった。

2018年に日本へ帰国し、再び国内に拠点を戻すとともに同年1月にインターナショナル・メディア学院の講師に就任した。

2022年5月、公式ホームページを開設した。

引用元:宮村優子 (声優) - Wikipedia



















2024年12月3日火曜日

長州力



12月3日は、元プロレスラーで現在はタレント活動を展開する、長州力(ちょうしゅう りき)の誕生日です。ニックネームは「革命戦士」。

長州 力(ちょうしゅう りき、1951年12月3日 - )は、日本の元プロレスラー、YouTuber。山口県徳山市(現・周南市)出身。静岡県熱海市在住。北海道猿払村ふるさと納税大使。

在日韓国人2世として生まれ、2016年に日本へ帰化した。韓国名は郭 光雄(かく こうゆう、クァク・クァンウン、곽광웅)。現在の本名(日本名及び旧リングネーム)は吉田 光雄(よしだ みつお)。

ニックネームは「革命戦士」。入場曲は異母犯抄作曲のオリジナルテーマ曲『パワーホール』。血液型O型。

スタン・ハンセンの流れを汲む、試合開始から終了まで走り回るハイスパート・レスリングの象徴とされ、基本的な技であっても差別化を図る工夫がなされている。また試合中に使う技の種類はレスラーの中でも比較的少ない方であるが、クラシカルなファンやマスコミの一部には逆に昭和プロレスの選手にして見ると使用する技の数が多いという声も存在する。

本人は小力について尋ねられた際、「昔から(特定の)レスラーを物真似する奴は多かったけど、自分のは出ないだろうなと思っていたので驚いた」「小力のおかげで覚えてもらえる」「家族全員小力の大ファン、全然キレてないですよ」とコメントしている。

自分で後ろ髪が切れないから、という理由で長髪がトレードマークであるが、過去に3度短髪にしている(1993年7月 - アキレス腱断裂・入院、復帰の際。1995年6月 - 越中とのタッグマッチに敗れ、リング上で自ら長髪を切る。1998年1月 - 引退後。)。1997年にも何度か髪を切っているが、目立った部分は前述の通りである。2000年代以降は茶髪でウェーブが掛かっている。

『さんまのまんま』(関西テレビ)に出演した際には、「自分はタイトルをとってもなかなか防衛することが出来なかった」と話した折に明石家さんまから「あんた、弱いんだ?」とあっさり言われて苦笑した(事実、王者としては、シングル・タッグともに短命に終わることが多かった)。また「話が舌足らずで聴きづらい」というさんまに対し「自分ではそう思っていないが、人にはよく言われる」と答えている。

2012年大晦日に放映された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 絶対に笑ってはいけない熱血教師24時』で、天龍源一郎と共に、滑舌の悪い教師役で出演した。

エステーが製造する消臭剤「消臭力」は、長州力にちなみ、同社の会長・鈴木喬によって名付けられた。

引用元:長州力 - Wikipedia



















2024年12月2日月曜日

初見良昭



12月2日は、武神館(ぶじんかん)を創設した武術家で戸隠流忍術34代目継承者の初見良昭(はつみ まさあき)の誕生日です。戸隠流第三十四代宗家ということで本物の「忍者」である。1988年「世界忍者戦ジライヤ」にて主人公の養父である山地哲山役で出演している。

初見 良昭(はつみ まさあき、1931年12月2日 - )は、武神館(ぶじんかん)を創設した武術家。戸隠流忍術34代目継承者。

千葉県出身。幼少の頃より空手、柔道(講道館柔道5段)、ボクシング、古武道、銃剣道など様々な格闘技・武道を修行。初め、天心古流の上野貴に師事し、上野貴の師の一人であった高松寿嗣に27歳の頃に入門し、その後15年間古武道の修行に励む。1958年(昭和33年)、高松から九流派を継承する。この九流派を統合したものを「武神館武道」と名づけ、道場を創設。増田専(柔道8段)に接骨技術を学ぶ。

1964年(昭和39年)放送のテレビアニメ『少年忍者風のフジ丸』の中の「忍術千一夜」という実写パートに「忍者おじさん」と名乗って出演。

1967年公開の映画『007は二度死ぬ』の忍術指導をした。

1974年(昭和49年)には映画『直撃! 地獄拳』(東映)の忍術指導をした。

また、1988年(昭和63年)から放映された特撮テレビドラマ『世界忍者戦ジライヤ』では主人公の養父である山地哲山役で出演。この山地哲山の役回りは、まさに『戸隠流第三十四代宗家』というものであった。武芸考証家・演出家として東映やスタッフと縁があった事からの出演である。また、彼の弟子も本作には端役ではあるが、出演している。なお、声については長沢大がアフレコで当てている。また、初見は武芸考証も務めた。

セルフディフェンスビクス発案に影響を与えたとされる。

2016年においても武神館の現役師範であり、海外にも多数弟子が存在している。武神館自体は度々、バラエティ番組である「YOUは何しに日本へ?」で取り上げられていたが(密着外国人の行き先が、武神館である事が度々ある)、初見本人が初めて登場したのは2014年の11月の放送からである。この時も自ら弟子に稽古をつけている。

2019年、『世界忍者戦ジライヤ』において、親子、師弟役で共演した筒井巧を戸隠流忍術三十五代目宗家に指名している。

引用元:初見良昭 - Wikipedia










世界忍者戦ジライヤ - Wikipedia







2024年12月1日日曜日

ギルバート・オサリバン



12月1日は、アイルランド出身の歌手・シンガーソングライターのギルバート・オサリバン(Gilbert O'Sullivan)の誕生日です。1972年にシングル「アローン・アゲイン」が世界的に大ヒット、後に「ゲット・ダウン」や「クレア」「ウー・ベイビー」 「ハピネス」などをはじめ、1970年代前半に世界的ヒットを連発した。

ギルバート・オサリバン(Gilbert O'Sullivan、1946年12月1日 - )は、アイルランド出身の歌手、シンガーソングライター。本名:レイモンド・エドワード・オサリバン (Raymond Edward O'sullivan) 。芸名は劇作家ウィリアム・S・ギルバートと作曲家アーサー・サリヴァンをもじったもの。代表曲に「アローン・アゲイン」(Alone Again - Naturally)や「クレア」(Clair)などがある。出身はアイルランドだが育ったのはイギリスである。

大学在学中にバンド活動を始めた彼は、1960年代中盤に自らが作詞・作曲を手がけたオリジナル作品のデモテープをあらゆる音楽出版社に売り込む。そして1967年CBSより、シングル『Disappear』でデビューする。2年後の1969年、彼はトム・ジョーンズなどのマネージャーとして知られるゴードン・ミルズの主宰するMAMレコードと新たに契約。そして翌1970年、シングル『ナッシング・ライムド』をリリース。この曲は全英シングルチャートで最高位8位を獲得した。またこの曲が収録されたアルバム『ヒムセルフ〜ギルバート・オサリバンの肖像』は全英チャートで最高位5位をマーク、86週にわたってランクインするロングセラーとなり、一躍彼はスターダムにのし上がる。1972年には、シングル『アローン・アゲイン』が世界的に大ヒット。同年グラミー賞にノミネートされた。とりわけアメリカではビルボードで計6週間1位、72年のビルボード年間シングル・チャートでは2位を記録するほどの大成功を収めた。同時期に発売されたアルバム『バック・トゥ・フロント』も全英でNo1を獲得。その後彼は「ゲット・ダウン」や「クレア」、「ウー・ベイビー」 「ハピネス」などをはじめ、1970年代前半に世界的ヒットを連発した。

ゴードン・ミルズとの対立もあり1975年以後ヒットから遠ざかったが、80年には「そよ風にキッス」が全英でトップ20に入るスマッシュヒットになった。

1985年あたりからはチャンネル諸島のジャージー島という人里離れた島で静かに暮らしながらもマイペースに音楽は作り続けていた。総じて1980年代は音楽業界から長らく遠ざかっていたが1990年代からは音楽シーンに復帰を果たし、自らの半生をモチーフとしたミュージカルのスコアを書くなどの創作活動を続けている。

引用元:ギルバート・オサリバン - Wikipedia























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