2025年7月19日土曜日

ブライアン・メイ (クイーン)



7月19日は、イギリスのミュージシャン・ギタリスト・天文学者でロックバンド「クイーン」のギタリスト・ボーカリストとして最も有名なブライアン・メイ(Brian May)の誕生日です。

ブライアン・ハロルド・メイ(英語: Sir Brian Harold May、CBE、1947年7月19日 - )は、イギリスのミュージシャン、天文学者(天体物理学博士)。

ロックバンド・クイーンのギタリストであり、自作のギター「レッド・スペシャル」とピックの代わりに使用する硬貨により独特の音色を奏でるギタリストとして有名である。また自作の曲ではリード・ヴォーカルを取ることもある。ミドルセックス州のハンプトン出身。

英音楽誌「トータル・ギター」の「史上最高のロックギタリスト」2020年版において第1位。ローリング・ストーン』の選ぶ「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第39位、2011年の改訂版では第26位。また熱心な動物愛護運動家でもある。 2005年に大英帝国勲章3等「コマンダー」(司令官/CBE)を受勲。2023年新年の叙勲でナイトの爵位を授与され「サー」の称号が与えられた。

インペリアル・カレッジ・ロンドンで学び、大学院では宇宙工学を研究しており、クイーンの活動が軌道に乗るまでは中学校の講師として教鞭を執っていた。その後、音楽活動のために研究を中断していたが、35年後の2007年の夏から天体物理学の研究を再開し、スペイン領カナリア諸島の天文台で研究を行って論文を完成させ、母校インペリアル・カレッジでの審査を通過して博士号を授与されている。

彼のギター「レッド・スペシャル」は特に有名で、自宅のテーブルのオーク材や彼の知人の家にあった100年以上前の乾燥した暖炉の木材を材料に、エンジニアだった彼の父ハロルド(1921〜87)と自作したオールカスタムギターである。そのギターと後述の独自の機材から奏でられる独特の音色と多重録音による凝ったギターの音像は、当時ロックにも使われ始めていたシンセサイザーの音だとされたことがあり、それに反発した初期のクイーンのレコードパッケージに"No Synthesisers were used on this Album(このアルバムにシンセサイザーは使用されておりません)"と書かれていたことは当時話題となった。

バンド内においては、クイーンの代表曲である「ウィ・ウィル・ロック・ユー」のほかに、「タイ・ユア・マザー・ダウン」や「アイ・ウォント・イット・オール」などのハードロック、プログレ的な「預言者の唄」やカントリー風の「'39」、「手をとりあって」や「セイヴ・ミー」などの優しいメロディを持つバラードなど、バラエティに富んだメロディー作りでバンドに貢献した。

ソロ活動はエドワード・ヴァン・ヘイレンらと競演した「スター・フリート・プロジェクト」が最初であるが、本格的なソロアルバムとしてはフレディ死後の『バック・トゥ・ザ・ライト』、『アナザー・ワールド』がある。また、フランス映画『フーリア』のサウンドトラックも製作した。またコージー・パウエルやニール・マーレイといった気心の知れた仲間たちと共に来日公演を行った。

引用元:ブライアン・メイ - Wikipedia

























2025年7月18日金曜日

ニコ (クリスタ・ペーフゲン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)



7月18日は、ドイツまたはハンガリーで生誕したシンガーソングライター、女優、ファッションモデルのクリスタ・ペーフゲン(Christa Päffgen)の命日です。一般にニコ(Nico)の名で知られている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが1967年に発表したファーストアルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」に参加したことでよく知られる。1988年7月18日、自転車から転倒、頭部を強打し脳内出血で息を引き取った。49歳没。

クリスタ・ペーフゲン(Christa Päffgen、1938年10月16日 - 1988年7月18日)は、ニコ(Nico)の名で知られるシンガーソングライター、女優、ファッションモデルである。

ニコは10代の頃から180cmという長身を生かしパリを中心に『ヴォーグ』、『エル』といったファッション誌のモデルとして活動し、その後、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』(1960年)等の映画に端役で出演している。ニコはこの頃にニューヨークに移り、しばらくの間、ヨーロッパとアメリカの両方で活動を行った。

1962年に俳優アラン・ドロンとの子供、クリスチャン・アーロン・ブローニュ(ブロングと書かれていることもある)、愛称はアリという男児を出産し世間を騒がせた。

ボブ・ディランの紹介でアンディ・ウォーホルに出会ったニコは、ウォーホルが主宰する「ファクトリー」の実験映画に参加する。ウォーホルは自らがプロデュースしていたルー・リード率いるヴェルヴェット・アンダーグラウンドにニコを参加させ、1967年3月のファースト・アルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』では4曲でニコがリード・ボーカルをとった。しかし、いわばウォーホルにゴリ押しされた形のニコは他のメンバーに受け入れられず、ニコはデビュー作への参加のみでグループを去る。

1974年の『ジ・エンド』を最後に長い低迷期に入る。

1969年からフランスの映画監督フィリップ・ガレルと交際をし始め、その後結婚するが1979年に離婚している。

1981年に久しぶりに発表されたアルバム『ドラマ・オブ・エクザイル』は、リリースをめぐるいざこざはあったものの、ジョイ・ディヴィジョン、バウハウス、エコー&ザ・バニーメン、ザ・キュアーのロバート・スミス、モリッシー、ビョーク、パティ・スミス、ソフト・セルのマーク・アーモンド、ザ・カルトといったバンドなどに代表されるゴシック・ロックやニュー・ウェイヴ・ムーブメントの中で高い評価を受ける。この時期から、日本を含む世界各地でライブを活発に行い、その模様は多くのライブ・アルバムに記録されている。

1988年7月18日、息子のアリと共に休暇で訪れていたスペインのイビサ島で自転車から転倒、頭部を強打し病院に運ばれた。レントゲン写真で脳内出血が確認され、数時間後に息を引き取った。享年49歳。

引用元:ニコ - Wikipedia



















2025年7月17日木曜日

大竹しのぶ



7月17日は、女優・タレント・歌手の大竹しのぶ(おおたけ しのぶ)の誕生日です。1973年テレビドラマ「ボクは女学生」に出演が芸能界デビュー。デビュー以来、仕事が途絶えた時期がない。話を盛る癖があるとIMALUに指摘されている。

大竹 しのぶ(おおたけ しのぶ、1957年〈昭和32年〉7月17日 - )は、日本の女優、タレント、歌手。

東京都品川区出身。東京都立小岩高等学校卒業、桐朋学園大学短期大学部演劇専攻科中退。IMALUは明石家さんまとの娘。

1973年、フォーリーブスの北公次主演のテレビドラマ『ボクは女学生』にて、北公次の相手役が一般公募された。これに応募した大竹は合格し、芸能界デビューした。

1982年にTBSのドラマディレクターの服部晴治と結婚し1985年に長男(二千翔(にちか))を生む。1987年に服部はガンにより死去。

1987年に『ひらけ!ポンキッキ』の挿入歌として歌った『かまっておんど』は、主婦やサラリーマン層にも受けて幼児向けの歌にとどまらないヒットとなった。

1988年に明石家さんまと再婚、1989年に長女IMALUを生んだが、1992年に長男とIMALUの親権を大竹が持つかたちで離婚。

2016年11月24日、第67回NHK紅白歌合戦に初出場することが発表された

中学時代は、体操部、高校時代は、バレーボール部に所属していた。

2018年9月7日に自身のホームページで同年9月1日に実母が逝去していたことを公表した。

2021年8月8日、2020年東京オリンピックの閉会式でオリンピックスタジアムのステージ上で杉並児童合唱団と共に登壇し、宮沢賢治の「星めぐりの歌」を歌唱する。

撮影時、いざとなれば瞬時に涙を流すことができたと言われており、いわゆる憑依型女優であった。別冊宝島の企画『日本の女優 100人』では女の深い闇を演じさせれば天下一品とも評されている。一方、本人は演技派女優と言われることが嫌だという。

引用元:大竹しのぶ - Wikipedia

























2025年7月16日水曜日

松本隆 (作詞家・元 はっぴいえんど・ドラマー)



7月16日は、作詞家でミュージシャン、70年代に活躍したロックバンド「はっぴいえんど」のドラマーだった、松本隆(まつもと たかし)の誕生日です。はっぴいえんど解散後はムーンライダーズ(オリジナル・ムーンライダーズ)として活動する傍ら、作詞家兼音楽プロデューサー業を始める。太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」の大ヒットにより作詞家として注目される。

松本 隆(まつもと たかし、1949年7月16日 - )は、日本の作詞家、ミュージシャン。ロックバンドはっぴいえんどの元ドラマー。東京都出身、兵庫県神戸市と京都府京都市左京区の二拠点生活

1968年に細野晴臣が掛け持ちしていたバンド「バーンズ」のドラマーとして活動中に小坂忠、柳田博義、菊池英二らに細野とともに誘われエイプリル・フールを結成(当時は「松本零」名義)した。この時期に常に本を持ち歩いていて文学青年に見えたことから、細野より「松本、詞を書け」といわれ作詞を担当するようになる。エイプリル・フールが短期間で解散した後、細野、大瀧詠一、鈴木茂と「ヴァレンタイン・ブルー(後のはっぴいえんど)」を結成した。松本が出演したラジオ番組によれば、作詞は細野から「こんな詩を書け」といわれて渡された輸入盤レコードの歌詞を大学の友人に訳してもらい、自分なりに似せて作ったところから始まったという。

はっぴいえんど在籍中は、つげ義春や永島慎二など『ガロ』系漫画や渡辺武信の現代詩に影響を受けた独特の作風で、都市に暮らす人々の心象風景を「ですます」調で描き、一部に熱狂的支持者を生むとともに、日本語ロック論争の発端となった。また、メンバーにはそれぞれ別名があり、松本は「江戸門弾鉄」名義で初期の大瀧のソロ曲の作詞も担当した。五つの赤い風船の「えんだん」で初めて、他のミュージシャンに詞を提供した。

はっぴいえんど解散後はムーンライダーズ(オリジナル・ムーンライダーズ)として活動する傍ら、作詞家兼音楽プロデューサー業を始める。しかしプロデュース第一作の南佳孝の『摩天楼のヒロイン』完成後に、南から「(歌詞が松本隆の世界すぎて)これはあなたのアルバムだ」と言われ、音楽プロデューサーとしての情熱を失ったという。その後、あがた森魚の『噫無情(レ・ミゼラブル)』、岡林信康の『金色のライオン』などのアルバムのプロデュースも行ったが、それ以降プロデューサー業からは退き、またオリジナルムーンライダーズからも脱退し、作詞家としての活動に専念することになった。

1970年代後半までに手掛けた特筆すべき仕事は、1975年の「木綿のハンカチーフ」の作詞ぐらいであるが、1978年に一連の原田真二作品の作詞を手掛けて世間に知られるようになった。松本自身、「1970年代後半は歌謡曲の駆け出し。駆け出しといっても、78年頃にはトップの方にいた」と述べている。

筒美京平とのコンビで中原理恵「東京ららばい」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」など、合計約380作品を手掛ける一方、1980年代よりはっぴいえんど時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメーカーとしての快進撃が始まる。ミリオンセラーとなった細野とのイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」や大瀧の大ヒット・アルバム『A LONG VACATION』、第23回日本レコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」、そして松田聖子の24曲連続オリコン1位中17曲を手掛けるなど、阿久悠に代わり歌謡界で一時代を築き上げた。松田聖子についてはプロデューサーの若松宗雄、編曲の大村雅朗とともに「聖子プロジェクト」の主要メンバーとして聖子を支え、松本の人脈を活かして作曲家を起用するなど、作詞家の範疇を超え総合的な曲のプロデュースに関わっていた。歌謡曲における“松本・筒美”コンビの名は後に伝説と化す。

その後も薬師丸ひろ子、斉藤由貴、中山美穂、C-C-Bなど多数のアイドル、アーティストに詞を提供したが、1989年に一時作詞家としての活動を「休憩」。1994年に本格的に作詞活動を再開するまでの間は能・歌舞伎・オペラ・クラシックなどの「古典」にはまり、1992年にはフランツ・シューベルト『冬の旅』の現代口語訳を手掛けた。

作詞以外の文筆活動も行っており、代表作ともいえる私小説『微熱少年』は、自身が監督して映画化された。これは作詞を担当した鈴木茂の曲と同名タイトルである。

現在は自主レーベル「風待レコード」を設立し若手の育成に努めている。また、ドラマ『のだめカンタービレ』では松田聖子の「ピンクのモーツァルト」が引用され、アニメ『マクロスF』の挿入歌「星間飛行」のヒットなどで新たな世代に存在を示しファン層を拡げた。

引用元:松本隆 - Wikipedia


















はっぴいえんど - Wikipedia



2025年7月15日火曜日

比嘉栄昇 (BEGIN・ボーカル)



7月15日は、歌手・俳優で日本・沖縄のアコースティック・バンド「BEGIN」のメンバーでボーカリストの比嘉栄昇(ひが えいしょう)の誕生日です。「BEGIN」は所謂「イカ天」出身のバンドとして知られ、1990年3月にデビュー曲「恋しくて」がヒットしたことでよく知られる。他に「涙そうそう」や「島人ぬ宝」「笑顔のまんま」などの楽曲でも知られる。

BEGIN(ビギン)は、日本のアコースティック・バンド。1988年に沖縄県石垣島出身の比嘉栄昇、島袋優、上地等の3人で結成され、1990年にデビュー。『三宅裕司のいかすバンド天国』に出場した。1990年のデビュー後、「涙そうそう」や「島人ぬ宝」などヒット曲を世に送り出し、『NHK紅白歌合戦』に出場した。

所属事務所はアミューズ。レコード会社はテイチクレコード系のImperial Records。

メンバー

比嘉 栄昇(ひが えいしょう、1968年7月15日(56歳) - ) - ボーカル

他メンバー

島袋 優(しまぶくろ まさる、1968年9月23日(56歳) - ) - ギター・ボーカル
上地 等(うえち ひとし、1968年6月23日(57歳) - ) - ピアノ・ボーカル

引用元:BEGIN (バンド) - Wikipedia
















BEGIN (バンド) - Wikipedia



2025年7月14日月曜日

斉藤慶子



7月14日は、女優・タレント・グラビアアイドル・歌手の斉藤慶子(さいとう けいこ)の誕生日です。1982年、日本航空「JAL沖縄キャンペーンガール」に応募し選ばれたのが芸能界入りするきっかけ。グラビアモデルで活動、歌手デビューもした。1983年、映画に初出演。

斉藤 慶子(さいとう けいこ、1961年〈昭和36年〉7月14日 -)は、日本の女優・タレント、元グラビアモデル・元歌手。宮崎県小林市出身。前夫との間に娘1人(現CBCアナウンサーの中村彩賀)。所属は太田プロダクション。身長164cm。B85cm、W59cm、H88cm。みやざき大使。

大学在学中の1981年7月、熊本市内でスカウトされ、そのマネージャーに勧められ、1982年、日本航空「JAL沖縄キャンペーンガール」に応募し、約800人の応募者の中から選ばれた。これにより芸能界入りして熊本大学教育学部心理学専攻を中退し、上京。大学の先輩でもある「宮崎美子2世」とも呼ばれグラビアモデルで活動、歌手デビューもした。1983年、映画に初出演。

1995年、前年の映画「東雲楼 女の乱」の演技により第18回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。

1997年7月、7年の不倫交際を経て、12歳年上の実業家木本裕仁と結婚し、2000年6月に長女(彩賀)を出産するが、2008年5月に離婚。親権は斉藤が持つ。

2007年、東国原英夫が宮崎県知事に初当選した際、祝福のコメントを述べた。同年、宮崎県の観光や農畜産物をPRする「みやざき大使」に選出された。

2009年8月、アップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)から、太田プロダクションに移籍。

2011年11月、15歳年上のショップジャパン創業者の中村規脩(なかむらただし)と子連れ再婚した。

2017年4月、慶應義塾大学大学院メディアデザイン科に進学。2019年3月、慶應義塾大学大学院メディアデザイン科修了。

引用元:斉藤慶子 - Wikipedia





























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