2025年12月9日火曜日

川瀬莉子 (河西莉子)



12月9日は、女優の川瀬莉子(かわせ りこ)の誕生日です。小学校低学年のころから河西莉子の芸名で子役・ジュニアアイドルとして活動をしていた。2018年9月27日に「第2回ミス美しい20代コンテスト」に川瀬莉子でエントリーしグランプリを受賞、その後女優やCMタレントとして活動中。

川瀬 莉子(かわせ りこ、1996年12月9日 - )は、日本の女優、元子役、元ジュニアアイドル。愛知県出身。オスカープロモーション所属。

小学校低学年のころから河西莉子の芸名で芸能活動を開始。当時はスカイアクターズ東京に所属していたが、2013年現在、プロフィールの掲載はない。愛知県立鳴海高等学校出身。

オスカープロモーションが主催、2018年4月-6月に応募期間を設け、9月27日にザ・キャピトルホテル 東急で開催された「第2回ミス美しい20代コンテスト」に川瀬莉子でエントリー、グランプリを受賞。短大卒業後、地元の自動車関係の会社で働こうと思って就活もしていたが芸能界を諦められず、上京したいと考えていたときにこのコンテストを見つけたのが応募のきっかけだと語っている。

引用元:川瀬莉子 - Wikipedia

























2025年12月8日月曜日

マーティ・フリードマン (元 メガデス)



12月8日は、アメリカのギタリスト・タレントで現在は日本在住のマーティ・フリードマン(Martin Friedman)の誕生日です。元「メガデス」のギタリストとして1990年に加入し4枚目のアルバム「ラスト・イン・ピース」から8枚目のアルバム「リスク」まで参加しバンドの全盛期を支える。ソロとしても活動し現在は日本に在住する。

マーティン・アダム・フリードマン(英: Martin Adam Friedman、1962年12月8日 - )は、アメリカのギタリスト、音楽評論家、タレント。

現在は日本に拠点を置き活動する。

幼少の頃のアイドルはキッス、ラモーンズ、エンジェル、エルヴィス・プレスリーなど。特にキッスに関しては「世界最高のハードロック・バンド」と述べている。

ビートルズが嫌いである。理由としてドラッグとヒッピーといった退廃的な文化をアメリカに広めたため、とのことである。しかし、ビートルズやニール・ヤングの影響が大きい奥田民生のサウンドやビートルズの作曲能力の高さは認めている。なお、2016年11月2日にオーチャードホールで開催された元ビートルズのリンゴ・スターのコンサートの最後の2曲(With A Little Help From My Friends/Give Peace A Chance)にゲスト参加し、スティーブ・ルカサーとリンゴ・スターの間でギターを弾いた。

メガデス時代に来日した際、街で流れていたB'zの「Liar! Liar!」に衝撃を受け、近くにいた人に「誰の曲?」と聞き、すぐにCDを買いに行ったというエピソードがあり、それ以来B'zのファンである。

ハードロック、ヘヴィメタルの元祖と称されるレッド・ツェッペリンのこともあまり好きではない。テレビ朝日「タモリ倶楽部」空耳アワード2009(2009年4月4日放送)出演時の本人の発言。

ディープ・パープルに関しても「僕はクラシック音楽が大好きだから、パープルを聴くと悲しくなっちゃうんだ」と発言していたが、2016年にジャズピアニストの西山瞳による「ハイウェイ・スター」のカヴァーについては、原曲からかけ離れた大胆なアレンジを施すも原曲に対するリスペクトがあると口にしている。ドイツのハロウィンに関して「歌詞がダサい」、バンド名にHellを入れていることについて「バンド名が五歳児並の駄洒落バンド」と否定的な意見を述べた。

基本的に「さわやか系のオーガニックロック」が苦手で、ジャック・ジョンソンの人気には全然共感できないと語っている。曰く「そういう曲って軽いBGMとして最適じゃん。だけど、僕が音楽に求めているのは、もっと深いところでの癒しや感動なんだよね」。

ハワイ在住時に、ラジオから流れた演歌に惹かれ、自身のギタースタイルも大きく影響を受けている。

高崎晃の大ファン。自身のライブ帰りにハワイのビーチで目撃し話しかけたことがある。高崎はその事を覚えているのにマーティは何故か覚えていない。

日本のテレビ番組『ヘビメタさん』では演歌歌手の八代亜紀と共演し、マーティがヘヴィメタル調にアレンジした「雨の慕情」を披露したこともある。

活動初期のHawaiiのアルバム『The Native Are Restless』では、「Omichan no Uta」なる題名で「さくらさくら」のカヴァーを演じている。

NHKの『英語でしゃべらナイト』の2006年11月17日の放送ではB'z、ZARD、相川七瀬、パフィー、広瀬香美等を聴いていると発言し、J-POP好きをアピールした。

自身がコラムの連載を行っている『日経エンタテインメント!』の2007年9月号には、坂井泉水への追悼特別付録として「ZARDメモリアルBOOK」が付き、ここに同誌で毎月連載している「J-POPメタル斬り」の番外編と称して、2ページに亘ってマーティのZARDにまつわる秘話やZARDの音楽評論を掲載した。最も好きなシングル曲は「きっと忘れない」である。

中田ヤスタカのプロデュースによるPerfumeの楽曲もそのメジャー・デビュー時より注目し、大いに気に入っているJ-POP楽曲として「ポリリズム」を挙げた。また、平原綾香の「孤独の向こう」なども挙げている。

母国語レベルではないものの日本語を流暢に話し、語彙も豊富。ただし、相川七瀬の喋る大阪弁が理解できず最初はわかったふりをしていたという。

日本語での口癖は「いいじゃん!」「アゲアゲじゃん!」。

引用元:マーティ・フリードマン - Wikipedia























2025年12月7日日曜日

小松政夫



12月7日は、コメディアン・タレント・俳優の小松政夫(こまつ まさお)の命日です。淀川長治のモノマネや「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」の番組で生まれた「電線音頭」や「しらけ鳥音頭」のヒットなどで知られる。俳優としても活躍した。2020年12月7日、肝細胞がんのため死去した。78歳没。

小松 政夫(こまつ まさお、本名:松崎 雅臣(まつざき まさおみ)、1942年〈昭和17年〉1月10日 - 2020年〈令和2年〉12月7日)は、日本のコメディアン、タレント、俳優、声優。社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身。

愛称は「親分さん」「小松の親分(自らのコントから)」「小松与太八左エ門」。所属事務所は有限会社ドン・タック。プロデューサーハウスあ・うんとスケジュール窓口で業務提携。

小松のコメディアンとしてのデビューは、付き人時に出演した『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)であった。

付き人兼運転手を約4年間務め上げた。

学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など、これまで接してきた人たちからヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、30万枚超え、または60万枚を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなる。植木も認める観察眼の持ち主だったといい、それが数多くのギャグや物真似芸を生み出した原動力であったと評される。

正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今もなお語り継がれている。

その後も小松はバラエティ番組やテレビドラマ、舞台など多方面で活躍した。1970年代後半から1990年代にかけては、『パナソニック ドラマシアター』(旧『ナショナル劇場』)や『月曜ドラマランド』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、後に善人役を多く演じるようになった。伊東は小松のことを「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評し、引き続き数多くのギャグの引き出しを保った。

2020年11月14日、容態悪化のため再入院。同年12月7日6時51分、肝細胞がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。78歳没。

引用元:小松政夫 - Wikipedia























2025年12月6日土曜日

車だん吉



12月6日は、タレント・俳優の車だん吉(くるま だんきち)の誕生日です。1966年にいわたがん太とコンビを組みコント55号の弟分として「コント0番地」を名乗り、たんくだん吉と名乗り活動していた。のちに車だん吉と改名。主に端役として活動していたが「お笑いマンガ道場」にレギュラー出演したことで全国的に有名になる。以降現在まで活動を続ける。

車 だん吉(くるま だんきち、1943年12月6日 - )は、日本のタレント・俳優・漫画家。本名:白沢 力(しらさわ つとむ)。浅井企画所属。愛称は、だんちゃん。

東京都、現在の江東区生まれ、千葉県佐倉市在住。立正大学経済学部卒業。身長177cm。

1966年3月、大学卒業後に左とん平に弟子入りしたところ、左に浅井企画を紹介され、事務員として入社。萩本欽一が主宰していた劇団・東京新喜劇の劇団員だったいわたがん太(のちに岩がん太→岩だん吉と改名)とコンビを組むことになり、芸人に転身した。コント55号の弟分として「コント0番地」を名乗っていた。当時の芸名はたんくだん吉で、はかま満緒の命名による。これは「顔がマンガみたいだから」との理由で、『タンクタンクロー』と『冒険ダン吉』からのもじりである。

同じ事務所の坂上二郎が三船敏郎主演のテレビ時代劇『荒野の素浪人』に出演する際に、抱き合わせ出演を依頼した。しかし番組制作側に芸名に難色を示された事から、「たんく」→「戦車」→「車」と改名した。

コント55号全盛時には、岩と共に萩本と「同棲」して、彼の身の回り一切を支えていた。しかし、岩が起業(当初魚屋、のちラーメン店へ転業)のため芸能界を引退し、コンビを解消。その後も車は芸能人として活動を続ける。

1976年から1994年まで放送された中京テレビのバラエティ番組『お笑いマンガ道場』で全国的に有名となり、プロ顔負けの漫画を披露し、人気を博した。マンガ道場での共演者であった漫画家 鈴木義司、富永一朗の推薦を受け、漫画家活動も行っており、漫画雑誌「わんぱっくコミック」や欽ちゃんの4コマ漫画おまけ付きい!(週刊漫画サンデー)などに漫画を掲載したこともある。

老女に扮する芸を持ち、九州を中心に活動したばってん荒川、吉本新喜劇の桑原和男と並ぶ「お婆さんキャラ」を持つ。また、役者としても様々なドラマ・映画に出演している。

日本テレビ『ぶらり途中下車の旅』ではかつて約2か月おきに出演し、「ミスターぶらり旅」の異名を取っていた(初代ナレーターだった滝口順平の逝去以後出演取りやめ)。

また声優として、『ピタゴラスイッチ』の百科おじさんの声を担当していた。初代の名古屋章から数えて三代目であった。

コントグループ「東京03」のメンバー・飯塚悟志は親戚。

引用元:車だん吉 - Wikipedia















2025年12月5日金曜日

山内テツ (ベーシスト・フリー(バンド)・フェイセズ)



10月21日は、日本のミュージシャン・ベーシストである、山内テツ(やまうち てつ、Tetsu Yamauchi)の誕生日です。1970年代にブリティッシュ・ロック・バンド「フリー」と「フェイセズ」で活動していたことで知られる。近年では再びステージに立ち演奏を再開しているようだったが、2025年12月5日に自転車事故により亡くなったことが発表された(2025年12月4日に死去。)。79歳没。

山内 テツ(やまうち てつ、Tetsu Yamauchi、1946年10月21日 - )は、福岡県福岡市出身のロック音楽家、ベーシスト。1970年代にブリティッシュ・ロック・バンド、フリーとフェイセズで活動していたことで知られる。

本名は山内 哲夫(やまうち てつお)。1968年にマイク真木のザ・マイクスに加入して音楽活動を開始。ミッキーカーチス&サムライのメンバーとして海外遠征を経験。その後麻生レミのバック・バンドなどで活動。

1971年4月、初来日したフリーのポール・コゾフ(ギター)、サイモン・カーク(ドラム)とスタジオで出会い、意気投合して渡英。フリーはまもなく解散し、山内はコゾフ、カーク、ラビット(キーボード)と共に、コゾフ・カーク・テツ・ラビット名義で同名アルバム『コゾフ/カーク/テツ/ラビット』(1972年)を制作した。

1972年2月、フリーはコゾフ、カーク、ポール・ロジャース(ヴォーカル)、アンディ・フレイザー(ベース・ギター)のオリジナル・メンバーによって再結成されたが、まもなくフレイザーが脱退。後任に山内が迎えられた。フリーの再結成には薬物摂取癖に苦しむコゾフを救うという目的があったが、結局コゾフは活動に支障をきたしてしまい離脱。残ったロジャーズ、カーク、山内はラビットを迎えて、ロジャースがギタリストを兼任。彼等は7月にエマーソン・レイク・アンド・パーマーとのジョイント・コンサートで2度目の来日を果たし、山内もメンバーとして22日に後楽園球場、24日に阪神甲子園球場で第一部のステージに登壇して凱旋ライヴを行なった。同年10月、彼等は新作アルバムの制作を開始し、翌1973年1月にアルバム『ハートブレイカー』を発表。山内が作曲に参加した「Wishing Well」のシングルは全英チャート7位(Music Week)を記録。彼等はアメリカ・ツアーも行ったが、やがて活動が停滞気味になって自然消滅的に解散した。

1973年の後半、ロニー・レーンの後任としてフェイセズに加入。作曲に参加したシングル「You Can Make Me Dance, Sing Or Anything 」が1974年に全英チャート12位(Music Week)を記録。1974年2月のフェイセズの初来日公演で二度目の凱旋ライヴを行なった。

渡英した当初、彼はイギリスのミュージシャンが所属するユニオンに加入できず活動を制限されそうになったが、マスコミとファンによる支援の声が問題解決につながった。

1975年にフェイセズが解散すると帰国して、山内テツ&グッド・タイムズ・ロール・バンドを結成しライヴ・アルバムを発表。その後は日本でソロ・アルバムのリリース、クリエイションに加入するなどの活動を行なった。1985年にはフリー・ジャズのドラム奏者、羽野昌二と共にOpe Bandを結成し、1990年まで活動した。その後も羽野と共に、アルバム『デア・デヴィル』(1992年)、ヴェルナー・リュディのアルバム『気』(1996年)に参加している。

2011年以降は表立った音楽活動を行なっておらず、2012年1月6日に原宿クロコダイルにて石間秀機、ジョニー吉長らとステージに立った以外はフェイセズ再結成への参加やメディアへの取材対応も一切断り、家族と共に静かに幸せな生活を送ってきた。

約10年後の2023年の9月29日に横浜でライヴを行った。同年10月23日、MEETS DUOとして、嶋田吉隆とともに久しぶりに原宿クロコダイルのステージに立ち、翌2024年1月29日、6月6日にも出演。活発な動きを見せている。

2025年12月4日に死去。79歳没。

引用元:山内テツ - Wikipedia























原田真二



12月5日は、シンガーソングライター・ミュージシャンの原田真二(はらだ しんじ)の誕生日です。1977年10月25日、19歳で「てぃーんず ぶるーす」でデビュー、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリース、「3ヶ月連続レコードリリース」という前代未聞の形でデビューし、3曲が同時にベスト15入りするという、日本音楽史上初の快挙を達成した。その後はデビュー時ほどのヒットは無いものの、コンスタントに自作を発表しており、現在までにリリースされたアルバム・シングルは70枚以上になる。

原田 真二(はらだ しんじ、1958年12月5日 - )は、日本のシンガーソングライター。広島市榎町(現:中区榎町)出身。

ボーカル、作詞、作曲、編曲、プロデュース。楽器はギター、ピアノ、キーボードを主要に扱うが、ベース、パーカッション、マリンバ、ブルース・ハープ、ドラム、琴、和太鼓なども演奏。ミックス、プログラミング、AI共作もこなす、マルチプレイヤー、マルチミュージシャンである。所属事務所はエアーフィールド(個人事務所)。血液型はAB。2011年(平成22年度)広島市より広島市民賞。ひろしま平和文化大使委属。

1977年10月25日、19歳のとき、「てぃーんず ぶるーす」発売後、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリース。「3ヶ月連続レコードリリース」という前代未聞の形でデビューを飾ると、3曲が同時にオリコンベスト15入りするという、日本音楽史上初の快挙を達成した。

「てぃーんず ぶるーす」、「キャンディ」、そして翌年に発売された「タイム・トラベル」は『三部作』と呼ばれる。更にファーストアルバム「Feel Happy」(1978年2月発売)も、オリコン史上初の初登場第1位を獲得した(4週連続1位)。10代でのファーストアルバム、オリコン1位獲得は、男性シンガーソングライターでは未だ原田のみ(2018年8月現在)。

「日本のニオイのまったくないメロディー」、「多様な音楽性」、「日本の音楽の系譜にない、都会的な軽やかさ」などと評され、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした。原田はそれまでの先輩たちとは違う、感性や音楽的バックグラウンドを持つシンガーソングライター、ポップス・クリエイターの新世代であった。

その後はデビュー時ほどのヒットは無いものの、コンスタントに自作を発表しており、現在までにリリースされたアルバム・シングルは70枚以上になる。1980年代からはソングライターとしても活躍し、吉川晃司や松田聖子とのコラボレーションでは、オリコンベストテンヒットも出している。その他のアーティストにも200曲以上の楽曲を提供。またCM・TV番組テーマ曲・ミュージカル音楽など多方面で活躍。複数の小学校の校歌も手がけている。2001年から2004年まで松田聖子のライブパートナー、プロデューサーとして活躍。これは少女期にファンクラブに入るなど原田ファンだった聖子からの申し入れであった。二人の息子も音楽の道を志しているという。

引用元:原田真二 - Wikipedia





























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