2025年1月7日火曜日

ケニー・ロギンス



1月7日は、アメリカのミュージシャン・歌手のケニー・ロギンス(Kenny Loggins)の誕生日です。70年代にポップデュオ「ロギンス&メッシーナ」でヒット、70年代後期よりソロで活動。80年代に「フットルース」や「デンジャー・ゾーン」など、映画主題歌でヒットを飛ばした。現在も活動中。

ケニー・ロギンス(Kenny Loggins)の名で活動するケネス・クラーク・ロギンス(Kenneth Clark Loggins, 1948年1月7日 - )は、アメリカのミュージシャン。日本では、70年代前半にロギンス&メッシーナの曲が数曲ヒットし、さらに「フットルース」や「デンジャー・ゾーン」などの映画主題歌も1980年代にヒットした。

ワシントン州エベレット生まれ。カリフォルニア州アルハンブラにて育つ。

音楽出版社に勤める傍らABCレコード所属の作曲家としても活動。1969年のエレクトリック・プルーンズ再結成時に短期間ギタリストとして参加したほか、彼の初期の曲は、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドが70年に録音している。旧友ジム・メッシーナのプロデュースでデビュー・アルバムを制作するにあたり、メッシーナとのデュオ、ロギンス&メッシーナを結成する。1972年にデビュー。ポップ・フォーク的な作風で、「プー横町の家」、「ママはダンスを踊らない」「愛する人」「放課後のロックンロール・パーティー」などのヒットを飛ばす。ロギンスが作曲した「ダニーの歌」や「愛の歌」は、カナダの女性歌手アン・マレーが採り上げ、全米ナンバーワンヒットを記録したことでも有名である。1977年からはソロとして活動を開始し、1978年、スティーヴィー・ニックスと共演した「二人の誓い」がヒットした。作曲家としても、ドゥービー・ブラザーズの「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」をマイケル・マクドナルドと共作しグラミー賞を受賞するなど、高い能力を示している。

1980年代にも「ディス・イズ・イット」などがヒット。1984年には映画『フットルース』の同名主題歌が全米1位を獲得。1985年にはUSAフォー・アフリカに参加した。「ウィー・アー・ザ・ワールド」で2小節リードボーカルをとっている(パートとしては2回目のサビで、ブルース・スプリングスティーンの次、スティーブ・ペリーの前)。

1986年には映画『トップガン』の主題歌「デンジャー・ゾーン」が全米第2位の大ヒットとなり、映画とともに多くの国でヒットを記録した。

その後、人気は下降したが、1990年代以降も、地道にアルバムをリリース。2005年にはロギンス&メッシーナを再結成。大規模な全米コンサートツアーを行い、アルバム Loggins and Messina Sittin' in Again をリリースした。

2000年公開のディズニー映画「ティガー・ムービー プーさんの贈りもの」で主題歌を担当する。楽曲は「Your Heart Will Lead You Home」。

2013年9月17日に発売されたコンピュータゲームグランド・セフト・オートVのサウンドトラックではラジオDJを務め、自身の曲「アイム・フリー」も提供している。

引用元:ケニー・ロギンス - Wikipedia










ロギンス&メッシーナ - Wikipedia











2025年1月6日月曜日

マルコム・ヤング (元 AC/DC)



1月6日は、スコットランド グラスゴー生まれ、オーストラリア シドニー育ちのギタリストの、マルコム・ヤング(Malcolm Young)の誕生日です。ハードロックバンド「AC/DC」のリズムギタリストとして長年にわたり「AC/DC」の土台を支え続けてきた。2017年11月18日に64歳で死去した。

マルコム・ミッチェル・ヤング(Malcolm Mitchell Young, 1953年1月6日 - 2017年11月18日)は、スコットランド グラスゴー生まれ、オーストラリア シドニー育ちのギタリスト。AC/DCのリズムギタリストとして知られている。同バンドのアンガス・ヤングは弟。デビュー当時から、グレッチのギターを愛用している。

マルコムとアンガスは、1973年11月にAC/DCを結成した。当時マルコムは20歳、アンガスは18歳であった。1974年に、彼らは初代ヴォーカリストのデイヴ・エヴァンスと共に世界ツアーを行う。

1976年に、AC/DCの活動拠点をイギリスに移し、世界ツアーおよびアルバム制作の過密なスケジュールをこなし始めた。しかし1980年、ヴォーカリストのボン・スコットが死亡、彼らは後継のヴォーカリストとしてブライアン・ジョンソンを迎える。ブライアンを加えて制作されたアルバム『バック・イン・ブラック』は世界中で爆発的なヒットとなった。

マルコムはアルコール依存症のため、1988年のツアーには不参加であった。しかしながらこの事実は隠され、公式には息子の病気のためツアーに参加しなかったとされた(息子は実際に病気であった)。マルコムはその後アルコール依存症を克服し、バンドに復帰した。マルコムの不在時、彼の甥であるスティーヴィーが後任としてバンドに参加した。

2014年4月、AC/DCはマルコムが休養すると告知。後に、今後バンドへ復帰することはないと発表した。ほどなくしてマルコムが認知症を患っていると報道され、家族もそれを認めた。

2017年11月18日に64歳で死去。次兄のジョージ・ヤングが亡くなった一か月後であった。

引用元:マルコム・ヤング - Wikipedia














AC/DC - Wikipedia



2025年1月5日日曜日

沢村忠 (キックボクサー)



1月5日は、キックボクサーの沢村忠(さわむら ただし)の誕生日です。60年代後半から70年代にかけてキックボクサーとして活躍した。沢村の半生を綴った漫画やアニメの「キックの鬼」の影響から世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた。2021年3月26日、千葉県の病院で死去。78歳没。

沢村 忠(さわむら ただし、1943年〈昭和18年〉1月5日 - 2021年〈令和3年〉3月26日)は、日本のキックボクサー。剛柔流空手道参段。満洲国出身。本名:白羽 秀樹(しらは ひでき)。娘はタレントの白羽玲子。半生を描いた漫画やアニメの『キックの鬼』の影響により、世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた。

1966年(昭和41年)4月に日本キックボクシング協会が旗揚げされ、リングネームを“沢村忠”として参戦。リングネームは、1964年(昭和39年)に空手道代表としてルンピニー・スタジアムでムエタイ選手と対戦してKO勝利した中村忠に由来する。野口はその強さにあやかり、「沢村忠」と命名した。

YKKアワー キックボクシング中継の実況をしていた石川顕(当時:東京放送アナウンサー)が命名した真空飛び膝蹴りや飛び前蹴りを武器にKOを重ね、活躍。1973年には三冠を達成したプロ野球の王貞治(読売ジャイアンツ)を抑え、日本プロスポーツ大賞を獲得した。

1976年(昭和51年)7月2日に最終試合を行い、翌年の10月10日に引退式を行った。最終成績は、241戦232勝(228KO)5敗4分(一説には500戦以上戦歴があるともされている)であった。

藤本勲との雑誌での対談等で、一時期「引退後、後遺症により精神病院に隔離」「死亡した」という説が出回り、沢村の活躍を知る年輩者には噂話として広まっていたといい、本人も居酒屋に行った際たまたま隣の人からその話題になり、適当に相槌を打って聞いていたというエピソードがある。

引退後は、格闘技界との関係を全て断ち切り、自動車の修理販売業を営むかたわら、子供達に空手を教えていた。パチンコ台販売会社・セイブシステムリンクの常務取締役でもあった。

2021年3月26日、千葉県の病院で死去。78歳没。前年夏に血痰が出るなど体調が悪化し、肺がんが進行した状態で見つかったという。その後は療養中だった。

引用元:沢村忠 - Wikipedia






















キックの鬼 - Wikipedia



2025年1月4日土曜日

植村花菜 (Ka-Na)



1月4日は、シンガーソングライターの植村花菜(うえむら かな)の誕生日です。代表曲として2010年から2011年にかけてヒットした「トイレの神様」が一般に有名。2019年よりアーティスト名をKa-Naへ改名している。

植村 花菜(うえむら かな、1983年1月4日 - )は、日本の女性シンガーソングライター。本名:清水 花菜(しみず かな)。2019年よりアーティスト名をKa-Naへ改名。愛称は、カナちゃん、カナ吉。兵庫県川西市出身。

2005年5月にシングル「大切な人」でキングレコードからメジャーデビュー。

先祖は大久保利通の父・大久保利世であり、利通の異母姉妹であるタケの子孫に当たる。

身長161cm。血液型A型。

4人兄弟の末っ子として母子家庭に育ち、子供の頃は母が働いている間、実家の隣の祖母の家で多くの時間を過ごした。

2016年末からニューヨークに移住して活動する中で、"Uemura"の発音は英語圏の人々には難しく、現地の方々には覚え難いと感じ、2019年からアーティスト活動名を"Ka-Na"へ改名する事とした。

アコースティックギターによる弾き語りが主なスタイル。稀にライブではピアノでの弾き語りも披露する。

主な使用ギターは、Martin OOO-28CTM、Gibson B-25、Guild F-30等

歌詞は自分の身の回りに起きたことを題材に書く。まずテーマを決めて長文を書き、そこから歌詞になる言葉を抜粋する。

影響を受けたアーティストはジュリー・アンドリュース(映画『サウンド・オブ・ミュージック』の主演女優)、カーペンターズ、パティ・ペイジ、ジョン・メイヤー。

8歳のときに見たミュージカル映画の名作『サウンド・オブ・ミュージック』に影響を受け、歌手になることを志す。

ギターを弾いたり日常に根差した音楽をやったりするのは、パティ・ペイジによって知ったカントリー・ミュージックの影響が大きい。また彼女の持ち歌で、日本でも江利チエミ、美空ひばり、雪村いづみなどによってカバーされた「テネシー・ワルツ」を歌うと、他の曲については何も言わない祖母も喜んだという。

ジョン・メイヤーによってギターの魅力を再発見し、彼のライブ・ビデオを見てギターの練習をした。

次のアルバムで売れなければ契約打ち切りという時にプロデューサーが寺岡呼人に変わる。雑談中に話した祖母との思い出を曲にするよう寺岡にアドバイスされ、「トイレの神様」が完成する。

引用元:植村花菜 - Wikipedia















2025年1月3日金曜日

リンリン・ランラン (Letilia Barber/鮑樂德、Katharine Barber/鮑家德)



1月3日は、香港出身の双子姉妹によるポップデュオ「リンリン・ランラン」のメンバーだったLetilia Barber/鮑樂德(姉)とKatharine Barber/鮑家德(妹)の誕生日です。日本デビューの1974年当時、中国系の双子歌手ということで珍しがられ人気を博し一世を風靡した。日本ではレコードは2年ほど出し、1978年ごろまで活動したようだ。

リンリン・ランランは、1959年1月3日生まれの香港出身の双子姉妹によるポップデュオ。日本での所属事務所はサンミュージックプロダクション、所属レコード会社はビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント)。

アメリカ人の父と中国人の母を持つ一卵性双生児のハーフ。1972年から香港で「樂家姊妹(ロッカーシスターズ、The Lokka Sisters)」として活躍。来日後にオフィス星野(岡山県)でダンスや日本語を学び、サンミュージックプロダクションに紹介をされ、1974年に日本テレビのテレビ番組『スター誕生!』でアシスタントとしてデビュー。

代表曲は、デビュー曲ながら最大のヒット曲となった「恋のインディアン人形」で、ロングのお下げ髪に、インディアンのような衣装を着て歌い、アジア系の雰囲気も持っていたため、先住民族と誤解されることも多かった。ほかに「陽気な恋のキューピッド」、「恋のパッコンNO.1」など。また、人気絶頂期に東京・芝公園(最寄り駅は御成門駅)にあった中華料理店「留園」のCMに出演し、「リンリンランラン留園…」とCMソングを歌ったこともあった。

日本での活動が下火になってからも、香港で桜田淳子、岩崎宏美などの楽曲を広東語でカバーしたレコードをリリースした。日本でおなじみであったお下げ髪は香港でもしばらく続けていた。

芸能界引退後はアメリカ合衆国で生活している。

リンリン(Letilia Barber/鮑樂德) - 姉。向かって左で歌う
ランラン(Katharine Barber/鮑家德) - 妹。向かって右で歌う

引用元:リンリン・ランラン - Wikipedia





























2025年1月2日木曜日

天本英世



1月2日は、俳優の天本英世(あまもと ひでよ)の誕生日です。比較的脇役が多いが、特撮ファンや一般に知られている役柄は何といっても「仮面ライダー」死神博士が一番有名だろう。2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去した。77歳没。

天本 英世(あまもと ひでよ、1926年〈大正15年〉1月2日 - 2003年〈平成15年〉3月23日)は、日本の俳優。「あまもと えいせい」の通称もある。福岡県若松市(現:北九州市若松区)出身。本籍は佐賀県鳥栖市。身長180cm、体重65kg。

1948年に東京大学法学部政治学科に入学する。大学では国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していたが、当時の政府の政治姿勢に失望し、文学や演劇に没頭するようになった。また、11歳年上の女性との失恋のショックも相まってその後、東京大学を中退して劇団俳優座に所属する。その後は俳優座スタジオ劇団同人会、劇団四季などに所属。1954年に28歳でオペラ『オテロ』において初舞台を踏む。同年に松竹と契約し、『女の園』と『二十四の瞳』で映画に初出演する。当時は180センチメートルで細身の美男子だったため、しばらくは二枚目俳優として売り出された。『女の園』は、木下恵介監督から哲学者みたいな顔つきを気に入られたことで、哲学の講師役での出演が決まった。『二十四の瞳』では高峰秀子の夫役に抜擢されたが、セリフ覚えが上手くいかず本人の中では大失敗に終わったという。また当初、天本の役は明石潮が演じる予定だった。

1958年に東宝と専属契約を結ぶ。以後、アクション映画や特撮映画などで個性的な脇役として活躍し、また人間離れした悪役や殺し屋などを数多く演じた。特に岡本喜八が監督を手掛けた作品にはその大半に出演し、中でも1967年の映画『殺人狂時代』の精神科医・溝呂木博士役が好評を得た。実年齢より上の老け役も多く、監督の本多猪四郎は天本は若いころから雰囲気が変わらない旨を述懐している。

私生活では20代からファルーカ(スペイン音楽の一種)とフラメンコを端緒としてスペイン語を独学で身につけ、スペインに深く傾倒していく。

1970年代からはテレビドラマに活躍の比重を移し、主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍する。1972年に毎日放送『仮面ライダー』で死神博士を演じ、悪役ながら人気を博した。

1991年(平成3年)からフジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』に「東大出身」の解答者としてレギュラー出演し、一般的な知名度を一気に高めた。

2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去、77歳没。カトリック教会の信徒であったため、地元にあるカトリック教会で葬儀が行われた。その後行われた天本の追悼公演には、佐々木剛、辰巳琢郎、黒部進らが参加した。2005年10月25日に遺灰がスペイン・アンダルシア州のグアダルキビール川源流に散骨された。

引用元:天本英世 - Wikipedia






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変身忍者 嵐 第40 - 47話(1973年) - 大魔王サタン


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