2025年11月27日木曜日

ブルース・リー (Bruce Lee・李小龍)



11月27日は、香港の中国武術家・武道家・俳優だった、ブルース・リー(Bruce Lee・李小龍)の誕生日です。1966年に「グリーン・ホーネット」の準主役に抜擢、のちに「ドラゴン危機一発」「ドラゴン怒りの鉄拳」「死亡遊戯」などのアクション映画に出演しスターとなるが、1973年7月20日に急逝してしまう。死因には諸説あるが公式な死因は脳浮腫である。32歳没。

ブルース・リー(中: 李 小龍、日本漢字音読み:り しょうりゅう、粤拼: Lei5 Siu2 Lung4、英: Bruce Lee、1940年11月27日 - 1973年7月20日)は、香港人の中国武術家、武道家、俳優、哲学者。截拳道を創始したマーシャルアーティストとして知られる。本名は李 振藩(リー・ヂェンファン、り しんはん、英: Lee Jun-fan、粤拼: Lei5 Zan3 Faan4)。身長については167 - 175cmと諸説あるが、実際に面会した一部の人の証言などから170cm弱とされている。体重64kg。墓碑銘は『FOUNDER OF JEET KUNE DO(「截拳道の創始者」の意)』。リンダ・リー(旧姓エメリー)との間に一男一女。息子はブランドン・リー、娘はシャンノン・リー。

1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスクをつけた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。

1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。

主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。

1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。しかしハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。

1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。かつて『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出した。

1973年7月20日、リーは『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼びそのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。32歳没。

公式な死因は脳浮腫である。司法解剖の結果、微量の大麻が検出された。

リーは、『燃えよドラゴン』の撮影約1か月後の1973年5月10日、ゴールデン・ハーベストのスタジオで音声吹き込み中に昏倒して意識不明の重体に陥り、そのまま病院に運ばれ2時間後に回復するも入院し、13日には退院している。その後、渡米し精密検査を受けるが結果は異常なしであったとされる。脳浮腫が起きた原因は背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、その晩に服用した頭痛薬の副作用といわれている。

引用元:ブルース・リー - Wikipedia

























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