11月7日は、俳優の上原謙(うえはら けん)の誕生日です。戦前・戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人。実子に俳優・歌手の加山雄三がいる。1991年11月23日に急性心不全で死去。82歳没。
上原 謙(うえはら けん、(1909年〈明治42年〉11月7日 - 1991年〈平成3年〉11月23日)は、日本の俳優。本名は池端 清亮(いけはた きよあき)。戦前・戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人である。
松竹時代、先輩女優である吉川満子、飯田蝶子、栗島すみ子につけられたあだ名は「シルヴァーフォックス(=銀ぎつね)」、「接待係の謙」、「ドアボーイの謙」だったという。接待係、ドアボーイの由来は上原が面倒見がいいことから来ている。ちなみに8クラブの他のメンバーにつけられたあだ名は佐分利が「海亀の信」、佐野が「アドバルーンの周二」、徳大寺が「三度笠の伸」、近衛が「置き物のトシ」、夏川が「級長面の大チャン」だった。
戦前戦後の全盛期は圧倒的な美貌で人気を博し、「絶世の二枚目スター」だった。それゆえ女性関係の話題には事欠かず、最初の妻である小桜は数度自殺未遂に追い込まれている。
『モスラ』で共演した小泉博は、上原からとても可愛がられたといい、上原が車を買い替えた際にはそれまで乗っていたツートーンカラーのシボレーを譲り受けたという。
東宝の俳優であった中島春雄によれば、上原は俳優仲間らをバス旅行に招待するなどしており、紳士的な人物であったと証言している。
晩年には男性用カツラのCMに堂々と出演し(自らカツラを着用していると宣言)お笑いバラエティー番組にも熱心に登場。子供向け特撮番組にも出演している。共演しているコメディアンのギャグを「わたしもやりたい」と懇願し、「大スターの上原さんにそこまでさせるのはまずい」と裏方スタッフを困らせるなど、飾らない庶民的な一面も見せていたという。元々、上原自身はダジャレや冗談を言うのが大好きだったらしく、終戦後、地方公演をしていた時期には伴淳三郎と自ら進んで舞台でコント等をやっていたという。ちなみに、喜劇映画に出たがっていた上原の念願かなって出演した『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年、坪島孝監督)では、『花咲く港』のペテン師をさらに昇華させたようなチョビ髭にズーズー弁の社長役を演じた(この演技は本人の「ズーズー弁でやりたい」という希望によるもの)。
息子の加山に対しては厳しい父親であったが、後に映画界入りし、1961年に加山を主人公とした映画『若大将シリーズ』の製作が始まった際には、プロデューサーの求めに応じて起用方法のアドバイスを行うなど子ども思いの一面もあった。しかし、加山がヒット作を連発すると、大きな子供を持つ父親というイメージのため、次第に二枚目として主要な役を得ることが困難となった。
大林との夫婦喧嘩が絶えなくなり1991年6月の末に、離婚。その後は加山の家にひっそりと身を寄せ、1991年8月には親子でニューヨークに旅行したが、年のせいか足腰が弱くなり、一人で風呂に入ることを心配されていたが「大丈夫だ」と言い、11月23日に風呂場でぐったりしているところを家政婦が発見、三鷹市の杏林大学付属病院に救急車で運ばれるものの蘇生することはなく、午後3時44分に急性心不全で死去(享年82歳)。会見で加山は「この一年半は心労が続き、静かな老後を送らせたかった」と涙をこらえながら語った。引用元:上原謙 - Wikipedia






