2026年1月17日土曜日

ミック・テイラー (元 ローリング・ストーンズ)



1月17日は、イングランドのミュージシャン・ギタリストのミック・テイラー(Mick Taylor)の誕生日です。ローリング・ストーンズのギタリストとしてブライアン・ジョーンズの後任として1969年から1974年まで在籍したことで有名。それ以前はジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに加入していた。ストーンズ脱退後はソロキャリアを積み重ねていった。

ミック・テイラー(Mick Taylor、1949年1月17日 - )は、イングランドのミュージシャン。ローリング・ストーンズの元ギタリストとして最も有名である。

『ローリング・ストーン』誌の2007年11月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」において第8位。2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第37位。

1965年には16歳にして、エリック・クラプトンが欠場したジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのライブでクラプトンの代役を務めた経験があり、その1年半後にはジョン・メイオールからの要請でブルースブレイカーズに正式加入し、ツアーやレコーディングを行った。

テイラーのストーンズへの加入では、5年後のロン・ウッドの場合と異なり、オーディションは行われなかった。ジョーンズの解雇後、ミック・ジャガーはジョン・メイオールからテイラーの紹介を受け、当時録音中の『レット・イット・ブリード』のセッションに参加させた。テイラーは「カントリー・ホンク」「リヴ・ウィズ・ミー」の2曲に参加したが、単なるセッションの仕事と考えていた。数日後、ジャガーはテイラーにストーンズの正式ギタリストに選ばれたことを伝えた。

ストーンズ加入後は主にリード・ギターを担当していたが、一部の曲ではリズム・ギターに廻り、非常に的確なリズム・ギターを披露していた。また「フィンガープリント・ファイル」ではベースも担当した。

テイラーはストーンズを1974年12月に脱退する。

CBSレコードとレコーディング契約を結び、1978年ごろからソロ・アルバムの制作にかかる。1979年にクマ原田、ムーランらの協力のソロ・アルバム『ミック・テイラー』をリリースした。

1982年にジョン・メイオール・アンド・ブルース・ブレイカーズの再結成ツアーに参加後、活動拠点をニューヨークに移す。翌1983年のボブ・ディランのアルバム『インフィデル』の録音参加をきっかけにディランの依頼を受け、1984年の夏の欧州公演のオープニング・アクトとバック・アップ・メンバーとして活動し、ライブ作品『リアル・ライブ』を残している。また翌1985年のスタジオ録音作品『エンパイア・バーレスク』にも参加して録音している。

ロサンゼルスでのスタジオ録音のセッション・ミュージシャンの活動と並行して、キーボード奏者のマックス・ミドルトンをメンバーに含むバンドを率いてライブ活動も続け、1987年には初の日本公演を行った。

1999年には2作目のオリジナル・アルバム『ア・ストーンズ・スロー』を発表している。

引用元:ミック・テイラー - Wikipedia





















2026年1月16日金曜日

ダモ鈴木 (元 カン)



1月16日は、旧西ドイツの前衛的ロックグループのカンのボーカリストとして知られる歌手である、ダモ鈴木(ダモ すずき、Damo Suzuki)の誕生日です。本名は鈴木健次。元・カンのボーカリストとして1970年から1973年まで在籍し、世界的に名を馳せている人物であるが、1960年代後半には新宿でヒッピー生活を経験、当時14歳で、「最年少フーテン」とも呼ばれた。2024年2月9日、悪性腫瘍のため死去。74歳没。

ダモ 鈴木(ダモ すずき、本名:鈴木健次〈すずき けんじ〉、1950年1月16日 - 2024年2月9日)は、旧西ドイツの前衛的ロックグループのカンのボーカリストとして知られる歌手である。神奈川県出身。

元・カンのボーカリストとして世界的に名を馳せている人物であるが、1990年代以降は一貫してセッション・スタイルで世界各国を旅しながら、現地のさまざまなジャンルの音楽家、バンドと積極的な活動を行っており、インスタント・コンポージングと呼ばれる独自の即興的歌唱法で、楽譜もリハーサルもなしに行う生演奏の手法を確立した。

カン自体は、一般に日本ではサイケデリック・ロックやクラウトロックに分類されるものの、鈴木の活動・音楽は、ロック、パンク、ジャズ、ノイズ・ミュージック、エレクトロニカ、テクノ、ヒップホップなど、さまざまなジャンルの音楽家に影響を与えている。中でも楽曲「I Am Damo Suzuki」を発表しているザ・フォール、鈴木のボーカルを収めた「Sing Swan Song」をサンプリングしたカニエ・ウェストなどが挙げられる。

一方で1960年代から1970年代にかけての国際派日本人ヒッピー世代を象徴する人物として、その自由奔放でアナーキーな行動など、数々の伝説を持つカリスマ的存在でもある。インターネットが普及するまで、カンでの活動期間中に撮られた写真や映像など、資料は数少なく謎の存在であった。

ダモ鈴木の出発点は、音楽家と言うよりも、自由の境地を求めるボヘミアン、ヒッピーとしての生き方であった。1960年代後半には新宿でヒッピー生活を経験、当時14歳で、「最年少フーテン」とも呼ばれた。また、当時の鈴木は、ジャズ、ジェームス・ブラウン、キンクスなどのファンだった。特にキンクスに関しては私設ファンクラブを主宰していた。

インスタント・コンポージング

鈴木は自分の独自の歌唱スタイルを現在このように呼んでいる。これは、フリージャズなどに見られる、即興ではあっても予定調和的な部分が大きい「即興演奏」と区別するために、鈴木自身が提唱しているオリジナル・スタイルである。とくにダモ鈴木ネットワーク・シリーズにおいては、全く何のリハーサルも行わず、音楽家同士の直感的セッションによって引き起こされ、次第に構築されていくアンサンブルや楽曲、すなわちサウンド、バイブレーションを主体とした考え方に由来する独自なものと考えられる。そのため歌詞や音程はあってないようなもので、日本語・英語・ドイツ語とゆかりのある言語のどれでもない不定形の歌唱によって、文字通りその場のインスピレーションでコンポーズされる。

2024年2月9日、悪性腫瘍のためケルンの自宅で死去。74歳没。

引用元:ダモ鈴木 - Wikipedia























2026年1月15日木曜日

マジカル・パワー・マコ



1月15日は、日本の音楽家である、マジカル・パワー・マコ(magical power mako 本名:栗田 誠)の誕生日です。1972年頃より16歳の若さでNHKのドキュメンタリーなどの音楽を担当し、天才音楽少年として脚光を浴びる。1974年、ポリドールよりデビューアルバム「マジカル・パワー」を発売。奇想天外で実験的な音楽性が一部で絶賛される。80年代初期にはアンビエント・テクノ、ハウステクノの基盤を制作していた。2025年2月7日に死去。69歳没。

マジカル・パワー・マコ(本名:栗田 誠、1956年1月15日 - 2025年2月7日)は、日本の音楽家。通称、マコ。

静岡県田方郡修善寺町(現伊豆市)生まれ。中学生時代から曲を作り始め、14歳ですでにオープンリール・テープレコーダーを使って自作曲の録音を始める。1971年、中学卒業とともに上京。鉄工所等でアルバイトをしながら、実兄と紫雲英(げんげ)というバンドを組み、渋谷ジァン・ジァンを中心に音楽活動を始める。

1972年頃より注目を浴び始める。同年5月には16歳の若さでNHKのドキュメンタリーなどの音楽を担当し、天才音楽少年として脚光を浴びる。また、この頃灰野敬二と出会い、親交を深める。

1973年渋谷ジァン・ジァンのパフォーマンスを見た、作曲家広瀬量平に認められNHKに出演する。『ひるのプレゼント』に灰野敬二とともに出演するも、その演奏に視聴者から苦情が殺到した。同年、武満徹と知り合い、武満が音楽を担当した映画『化石の森』の録音に参加。さらには映画『卑弥呼』、『未来への遺産』の音楽を担当。このころより、自宅でテープコラージュなどの手法を使って録音を重ね、粗いながらきわめて実験的な、膨大な量の作品を作る。当時、自宅には300種にもおよぶ楽器があったという。

1974年、ポリドールより、デビューアルバム『マジカル・パワー』を発売。奇想天外で実験的な音楽性が一部で絶賛される。

1975年、アルバム『スーパーレコード』発売。以後、中原挌(ギター)、仁科啓一(ベース)、渡辺昭司(ドラムス)と組み、バンドという形態での活動にも力を入れる。

1976年、NHKドラマ『タウン』出演。第16回日本テレフィルム技術賞受賞(録音)作品。

1977年、このバンド編成でアルバム『JUMP』を発売。

1980年頃には修善寺に戻る。その後、マコを訪ねて吉田和正が修善寺に移り住み、共に新しい音楽活動を開始する。主に、アナログシンセサイザーとパーカッションを駆使した音を創り続けたが、この頃の音は一部CDで聞くことが出来る。既に二人でアンビエント・テクノ、ハウステクノの基盤を制作していた。また、マコと吉田は伊豆を中心にライブハウスのプロデュースも行っている。

1981年、『Welcome To The Earth』を発売。

1982年、『Music from heaven』をレーベル「Marquee」より発売。新宿ロフトにてライブ(ゲスト:Katra Turana)。

1983年、「コンピュータグラフィックス&ミュージックライブショー」を企画。演奏とオペレーションを担当。

1985年、CBS・ソニーより『mAgicAl compUteR MusiC』を発売。楽曲作成に、MSXパソコンを使用。

1986年、NHK局長賞受賞。NHK-FMのラジオドラマ『アディオスケンタウルス』(斉藤由貴主演)を企画し、作曲をする。

1990年代に入ると、「宇宙人との交信のための音楽」を作り始める。

1997年、『No government after Revolution』を「Marquee」より発売。愛知の幻庵にてオマルズとライブ。

2001年10月7日、渋谷CLUB QUATTROにて「ウダガワロック」と冠されたインディーズバンド集結のフェスティバルに大トリで出演した。

2012年以降、東日本大震災を契機に関西に移住。新たなホームレコーディングによる音楽制作、ライブ活動に入る。

2025年2月7日に死去。69歳没。

引用元:マジカル・パワー・マコ - Wikipedia

















2026年1月14日水曜日

松居直美 (タレント)



1月14日は、タレント・歌手・女優・ものまねタレントの松居直美(まつい なおみ)の誕生日です。アイドル演歌歌手としてデビューしたが、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」に出演したことでバラドルとしての人気も得る。「ものまね王座決定戦」では得意のモノマネを生かし所謂「ものまね女四天王」と呼ばれた。「はやく起きた朝は…」での泣きのトークも絶妙である。

松居 直美(まつい なおみ、1968年1月14日 - )は、日本のタレント、歌手、女優、ものまねタレント。ゴールデンミュージックプロモーション所属。

中学2年生で『歌まね振りまねスターに挑戦!!』(日本テレビ)に出演。そのまま芸能界にスカウトされ、谷田部町立高山中学校(現:つくば市立高山中学校)在学中の1982年に『電話のむこうに故郷が』で歌手デビューする。

もともとアイドル演歌歌手だったが、『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(フジテレビ)のコーナー「良いOL・悪いOL・普通のOL 」で「普通のOL」役に起用され、素人っぽさの残る動きや茨城訛り、アドリブのやり取りなどがお茶の間に浸透する。コーナーも出演者も瞬く間に人気となり、OL役3人で「よせなべトリオ」を結成してレコードデビューまで至る。

「よせなべトリオ」のデビュー曲『大きな恋の物語』はオリコンで最高位8位・16万枚を越すヒットを記録。

『ものまね王座決定戦』(フジテレビ)では得意のモノマネを生かし、松本明子・篠塚満由美、他一名とともに「ものまね女四天王」と呼ばれた(定番は坂本冬美や石川さゆり、都はるみなど)。

1994年6月、声帯ポリープ摘出手術のため入院する。当時レギュラー司会を務めていた『おそく起きた朝は…』(フジテレビ)は収録日の都合から休まず出演できた。

『はやく起きた朝は…』(フジテレビ)で長年共演している磯野貴理子、森尾由美とプライベートでも親交があり、森の磯松というユニットも組んでいる。

引用元:松居直美 (タレント) - Wikipedia

























2026年1月13日火曜日

田の中勇



1月13日は、声優の田の中勇(たのなか いさむ)の命日です。主に声優として活動し、代表作として「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉おやじ役として一般にお馴染みである。2010年1月13日、心筋梗塞のため亡くなる。77歳没。

田の中 勇(たのなか いさむ、1932年7月19日 - 2010年1月13日)は、日本の男性声優。東京都台東区出身。青二プロダクションに所属していた。

劇団こだま座、劇団化粧座、劇団東芸、テアトル・エコー、土の会、東京アクターズプロを経て、青二プロダクションに所属していた。

青二プロダクションの創立メンバーのひとり。

声種は「軽妙でコミカルなテノール」。極端に高い声を使用することが多いが、地声は比較的低いほうで、『ゲゲゲの鬼太郎のオールナイトニッポン』[信頼性要検証]では、有名な高い声と比較すると自身の地声が低いというギャップを、多少自嘲しながら紹介していた。高校時代でもテノール、ボーイソプラノとも言えるほどの高い声だった。舞台ではシスターボーイ役を演じていたことがある。

役柄としては少し癖はあったが、気のいい小心者といった感じの父親役が多かった。

『ゲゲゲの鬼太郎』では1968年の第1期シリーズから第5期シリーズまで、一貫して目玉おやじの声を担当していた。これらは数度行われた実写化においても同様であった。

1985年の第3期シリーズでは鬼太郎役が野沢雅子から戸田恵子に変更され、第1・2期シリーズとは声優の一新が図られ、目玉おやじも新キャストのオーディションが行われていたが結局ふさわしい後任が見つからず、田の中が続投になった。これがきっかけとなり、1996年の第4期シリーズ、2007年の第5期シリーズでも田の中が担当した。

2010年1月13日、心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で亡くなっているのを家族によって発見された。満77歳没(享年79)。生涯独身だった。特に体調が優れないということはなく、心臓の病気もなかったという。『マリー&ガリー』第32話『ピザなのにパイ』の出演が最後の仕事となった。

引用元:田の中勇 - Wikipedia













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