2026年5月15日金曜日

マイク・オールドフィールド



5月15日は、イングランドのロック・ミュージシャンである、マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield)の誕生日です。1973年発表の「チューブラー・ベルズ」はプログレッシブ・ロックの歴史的名盤とされ、他に1983年のシングル「ムーンライト・シャドウ」のヒットなどで知られるマルチ・プレイヤーである。

マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield, 1953年5月15日 - )は、イングランドのロック・ミュージシャン。デビュー・アルバム『チューブラー・ベルズ』(1973年)やシングル「ムーンライト・シャドウ」(1983年)のヒットで世界的に知られる。

1973年5月、リチャード・ブランソンが主宰する新興レーベル、ヴァージン・レコードの第1弾アーティストとして、アルバム『チューブラー・ベルズ』でデビュー。2,400回もの多重録音を繰り返して制作された壮大な同アルバムは全英1位を記録。特徴あるイントロのフレーズが別人の演奏によってアメリカ映画『エクソシスト』(1974年)に使用され、さらに知名度が上がった。同アルバムは現在までにイギリス国内で260万枚を売り上げ、全英歴代トップ30にランクインするほどの大ヒットとなり、プログレッシブ・ロックの歴史的名盤とされている。

続いて1974年に『ハージェスト・リッジ』(全英1位)、1975年に『オマドーン』(全英4位)とアルバムを出すも、成功によって生じた精神的重圧に苦しみ長期間の療養生活に入る。1978年に『呪文』を発表してカムバックを果たした後は、アルバムを発表するだけでなく精力的にツアーを行うようにもなり、翌1979年にはヨーロッパでのライブの模様を収めた『エクスポウズド』をリリースしている。

1980年代に入ってからも『ファイヴ・マイルズ・アウト』(1982年、全英7位)、『クライシス』(1983年、全英7位)と優れた作品を続けて発表。この頃から時代の変化に合わせて従来のプログレッシブ・ロックからのアプローチをやめ、所属レコード会社であるヴァージンのイニシアティヴの下でポップ寄りの作品を発表するようになる。マギー・ライリーのボーカルによる『クライシス』収録の「ムーンライト・シャドウ」はヨーロッパ中で大ヒットし、その後アニー・ハズラムやアゼリン・デビソンがカヴァーする代表曲となる。

1982年5月26日、渋谷公会堂で1日のみの初来日公演を行ない、マギー・ライリー参加の下で、来日時点での最新作アルバム『プラチナム』(1979年)、『チューブラー・ベルズ』『オマドーン』などからの楽曲などを主に演奏した。

続く『ディスカバリー』(1984年)からも、「トゥ・フランス」(ボーカルはライリー)や「トリックス・オブ・ザ・ライト」(ライリーとバリー・パーマーのデュエット)がシングル・ヒットした。以降も様々なボーカリスト(以下、括弧内)を起用し、「ファミリー・マン」、「シャドウ・オン・ザ・ウォール」(ロジャー・チャップマン)、「アイランズ」(ボニー・タイラー)、「イノセント」、「キリング・フィールドのテーマ(エチュード)」、「ヘヴンズ・オープン」(オールドフィールド自身)などのヒット曲を生み出す。

1992年にワーナーに移籍し、代表作『チューブラー・ベルズ』の続編『チューブラー・ベルズII』を発表。同作は全英1位を記録した。1998年にはさらなる続編『チューブラー・ベルズIII』を発表。同作のワールドプレミアム公演には、かつてレーベル移籍問題で確執が取りざたされたリチャード・ブランソンが観客として訪れた。

2004年、マーキュリーに移籍。

2007年、自伝を出版。

2012年、ロンドンオリンピックの開会式で演奏した。

引用元:マイク・オールドフィールド - Wikipedia



















2026年5月14日木曜日

キダ・タロー



5月14日は、日本の作曲家・ピアニスト・タレント・ラジオパーソナリティである、キダ・タロー(本名・木田 太良(きだ たろう))の命日です。いわゆる「浪花のモーツァルト」と呼ばれ、数多くの放送番組のテーマ曲・CM曲・企業の社歌、学校の校歌、歌謡曲を作曲している。タレント活動も行っていた。2024年5月14日、死去。93歳没。

キダ・タロー(1930年〈昭和5年〉12月6日 - 2024年〈令和6年〉5月14日)は、日本の作曲家、ピアニスト、タレント、ラジオパーソナリティ。本名、木田 太良(きだ たろう)。兵庫県宝塚市出身。財団法人箕面市文化振興事業団理事。昭和プロダクションを経て、オフィスとんで最終所属(2022年7月1日より)。数多くの放送番組のテーマ曲・CM曲・企業の社歌、学校の校歌、歌謡曲を作曲し、「浪花のモーツァルト」の二つ名を持つ。妻はタレントの木田美千代。

初めて作曲したのは、18歳、または19歳の頃で、当時難波にあったキャバレー「パラマウント」の曲。その唄を歌ったのは、当時のNo.1ホステスだった「双葉」(後のかしまし娘の正司歌江)であった。

関西学院大学を中退し、プロピアニストに転向した。20代の前半頃から「義則忠夫とキャスバオーケストラ」のピアニストとしてキャバレーなどで10年間活動した。

私生活では、1964年4月に結婚。同年、『ふるさとのはなしをしよう』(歌唱:北原謙二)でレコードデビューした。

本格的に作曲活動を開始したのは20代前半の頃で、キャスバオーケストラでも作曲を担当するようになった。30歳頃を境に人気作曲家となる。

一時期は近畿の放送局が制作を手掛けるテレビ番組・ラジオ番組のテーマ曲の多くを手がけ、資料によっては「総ナメ」ともいわれる。キダによれば、音楽の用意を忘れていたらキダの所へいけ、キダならすぐに対応するだろう、という状況であったとのことである。

代表曲はテレビ番組に提供したものについては、『プロポーズ大作戦』、『ラブアタック!』、『平成古寺巡礼』(本人によればキダらしくない楽曲であるという)など。CMソングについては『プロ論。』によれば、『出前一丁』『かに道楽』、zakzakによれば『兵衛向陽閣』、関東の『小山ゆうえんち』。本人によれば、初期の作品では『エールック』のものが印象に残っているとのことである。そのほか、歌謡曲として『ふるさとのはなしをしよう』を代表曲としている。

近畿地区での業績が知られるところであるが、前述の『小山ゆうえんち』の他、三原堂(仙台市、時計宝飾店)、マツオ(北海道滝川市、松尾ジンギスカン)など他地区からの仕事も行っていた。

2024年5月14日午前6時13分、大阪府の自宅で死去した。93歳没。訃報は翌15日に円広志が代表取締役を務める所属事務所「株式会社ワイドウィンドウズ」より発表された。

引用元:キダ・タロー - Wikipedia



















2026年5月13日水曜日

岩田華怜 (元 AKB48)



5月13日は、女優・写真家であり、女性アイドルグループ「AKB48」の元メンバーである、岩田華怜(いわた かれん)の誕生日です。幼少期よりキッズローカルタレントとしてテレビ番組やCM、舞台に出演。2011年2月20日、AKB48第12期研究生オーディションに合格したが、3月11日、仙台市内の実家で東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の被害を受ける。アニメ「AKB0048」声優選抜メンバーに選ばれ、NHK東日本大震災プロジェクト「明日へ~支えあおう~」のテーマソングを歌う、「花は咲くプロジェクト」の一員として、東日本大震災復興支援チャリティーソング「花は咲く」にAKB48から仲谷明香とともに参加した。2016年5月21日、AKB48としての活動を終了。卒業後は舞台を中心に活動。2024年6月から3年間の予定で語学や演劇のため留学。

岩田 華怜(いわた かれん、1998年〈平成10年〉5月13日 - )は、日本の女優、写真家。女性アイドルグループ・AKB48の元メンバー。愛称はカレン。宮城県仙台市出身。所属事務所はAKS(AKB48時代)、ホリプロ(2016年4月 - 2023年6月)を経て、現在はフリー。写真家として東京服飾専門学校にて講師も務め、2024年6月よりアメリカ合衆国にて語学や演劇のため留学中。

好きな食べ物は豚足、ホルモン、酢昆布、萩の月、笹かまぼこ など。

AKB48加入前からミュージカルスクールで舞台を経験し、舞台女優を志望、ブロードウェーの舞台に出演することを目標としている。自身が出演した「萩の月」のCM完成発表会で、同席していたタップダンサー熊谷和徳とともに、タップダンスを披露したことがある。

ギターの弾き語りができる。目標としているアーティストは吉井和哉と沢田研二で、好きなバンドはDOESとSPYAIR。

好きなアニメ・漫画・小説は『銀魂』、『青の祓魔師』、『ギャグマンガ日和』、『べるぜバブ』、『鋼の錬金術師』、『バクマン。』、『ONE PIECE』、『AKB49〜恋愛禁止条例〜』、『デュラララ!!』、『僕は友達が少ない』、『進撃の巨人』など多数ある。特に『銀魂』の大ファンで、同じく『銀魂』の大ファンである三田麻央(当時NMB48)と意気投合する仲だった。

声優の大林隆介と父親は、仕事の関係で親交のある関係だった。岩田自身が大林と初めて会ったのは2012年6月23日で、声優の仕事について多くのアドバイスを受けたという。

2017年に日本大学藝術学部写真学科に入学し、6年かけ2023年3月に卒業、同年6月30日をもってホリプロを退所し、2024年6月よりアメリカ合衆国に留学中。

引用元:岩田華怜 - Wikipedia

























2026年5月12日火曜日

上原美優



5月12日は、タレント・グラビアアイドルであった、上原美優(うえはら みゆ)の命日です。1987年5月2日、父親が55歳で母親43歳の時、兄弟4男6女の末っ子として誕生、いわゆる「種子島出身の貧乏アイドル」として有名になる。精神的に不安定だったことも災いし、2011年5月11日自室のドアにスカーフとベルトで首を吊っていた所を発見され、救急搬送されたが翌12日午前3時37分に病院で死亡が確認された。24歳没。

上原 美優(うえはら みゆ、本名:藤崎 睦美、1987年〈昭和62年〉5月2日 - 2011年〈平成23年〉5月12日)は、日本のタレント、グラビアアイドル。鹿児島県種子島(熊毛郡中種子町野間)出身。プラチナムプロダクション最終所属。

1987年5月2日、父親が55歳で母親43歳の時、兄弟4男6女の末っ子として誕生した。本名の睦美は六女に因んで付けられた。姉の1人は「ミス種子島」に選ばれている。

当時の藤崎家は家庭の状況から、子供は中学卒業で自立することが家庭内の決まりであり、種子島を離れ鹿児島市内の高校へ進学し、自ら学費を稼ぎながら通学していた。だが入学後暴行被害に遭った事が原因で退学する。

2006年 - 桜井ひな、藤崎まやと共にフォーミュラ・ニッポン「ディレクシブレーシングガールズ」としてレースクイーンデビューをするが、チームの突然の撤退により第5戦で活動終了する。

2007年 - 「sabraブロガール選手権」に出場した。その後、ブランクを経て「種子島出身の貧乏アイドル」として知名度を上げる。

2007年 - クリスマスに恋人に振られた寂しさから睡眠薬を服用し自殺を図ったが、一命を取り止めた。

2008年夏頃より - テレビのバラエティ番組にも多数出演するようになった。

2010年2月28日 - 東京マラソン2010に参加した。レース前に「『ゴールさえすればいい』とチャライことを言っていた西尾さんには負けたくない」と、西尾由佳理(フリーアナウンサー、当時は日本テレビアナウンサー)を挑発する発言をするが、西尾は完走し、上原は天候と故障している足による影響で意識を失い、スタートから25km地点でリタイヤとなった。

2010年3月29日 - 母親が心筋梗塞で死去したが、本人は仕事で最期を看取れなかった。この時初めて家族全員が集合して葬儀を行い、記念撮影をした。だがショックは大きく、以後精神的に不安定な様子が見られたという。

2011年5月11日午後11時頃、東京都目黒区のマンション自室で交際中の一般男性と過ごしていたが、「2時間ほど1人にしてほしい」と男性を外出させた。その後、外出先の男性の携帯電話に死をほのめかす電子メールが送られ、折り返し電話をかけても上原が出なかったため、男性が上原の自宅に戻ったところ、自室のドアにスカーフとベルトで首を吊っていた所を発見され、救急搬送されたが翌12日午前3時37分に病院で死亡が確認された。24歳没。

兄姉や従兄弟のうち、8人が上京して遺体を引き取った。

引用元:上原美優 - Wikipedia

























2026年5月11日月曜日

ひかる一平



5月11日は、俳優で、かつての旧ジャニーズ事務所に所属したアイドル歌手であった、ひかる一平(ひかる いっぺい)の誕生日です。1980年に「3年B組金八先生(第二シリーズ)」で俳優デビュー。1981年5月に「青空オンリー・ユー」で歌手デビュー。1985年、ジャニーズ事務所を退所。以降俳優業の傍、子役プロダクションの講師や代表を務める。

ひかる 一平(ひかる いっぺい、本名:谷口 一郎(たにぐち いちろう)、1964年(昭和39年)5月11日 - )は、日本の俳優で、かつての旧ジャニーズ事務所に所属したアイドル歌手であった。

その後所属芸能事務所は「サードプロデュース」を経て、現在は「クロスポイント」に所属。俳優養成事務所「株式会社スカイアイ・プロデュース」代表取締役。身長172cm、体重62kg、血液型はO型。

東京都大田区山王出身。堀越高等学校卒業。

1979年(昭和54年)、姉がジャニーズ事務所に一平の履歴書を送ったことで芸能界入り。当時通っていた学校が、本名での活動は駄目だったということで芸名を考えることになり。ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の姉であるメリー喜多川から、本名が地味だという理由で“ひかる一平”と命名される。これを聞いた本人はこの時「(名前が)漫才師みたいじゃないか」と思ったという。同期には少年隊の東山紀之がいた。

1980年(昭和55年)、高等学校1年生の時に、TBS系テレビドラマ『3年B組金八先生(第二シリーズ)』でJr.時代に俳優デビュー。1981年(昭和56年)5月、フォーライフ・レコードから「青空オンリー・ユー」で歌手デビュー。以降、1980年代前半はアイドル歌手として活動した。1981年(昭和56年)、「第8回FNS歌謡祭」最優秀新人賞候補にノミネートされた(受賞したのは同じ事務所の近藤真彦)。

1985年(昭和60年)、ジャニーズ事務所を退所。

2003年(平成15年)より、子供タレントを養成するプロダクションの講師を9年間務める。

2012年(平成24年)に独立。自ら子役プロダクション「株式会社スカイアイ・プロデュース」を設立、代表に就任。

2018年(平成30年)4月より東邦音楽大学パフォーマンス総合芸術文化専攻講師としても活躍している。

2025年6月公開の映画『還暦高校生』で『胸さわぎの放課後』以来43年ぶりに映画作品での主演を担当する。

引用元:ひかる一平 - Wikipedia

























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