2025年8月9日土曜日

佐藤蛾次郎



8月9日は、俳優・タレントの佐藤蛾次郎(さとう がじろう)の誕生日です。アフロヘアーと髭がトレードマークであった。「男はつらいよ」で寅次郎の舎弟・源ちゃんとしてもおなじみ。2022年12月9日、ヒートショック現象に起因する虚血性心不全のため亡くなる。78歳没。

佐藤 蛾次郎(さとう がじろう、1944年〈昭和19年〉8月9日 - 2022年〈令和4年〉12月9日)は、日本の俳優・タレント。

大阪府高石市出身。本名は佐藤 忠和(さとう ただかず)。E・NESTO所属。息子は俳優の佐藤亮太。

1953年に朝日放送児童劇団に入団する。1961年に『神州天馬侠』の泣き虫蛾次郎を演じてから、芸名を佐藤 蛾次郎とする。

1968年にはテレビドラマ『男はつらいよ』に出演。1969年からは『男はつらいよ (映画)』に柴又題経寺の寺男・源吉(愛称:源公、源ちゃん)役で出演。最新作の2019年まで出演し続け、本シリーズに欠かせない存在となる。ファンからは全50作全てに出演したと思われているが第8作の『男はつらいよ 寅次郎恋歌』のみポスターに名を重ねているものの撮影直前に交通事故に遭い緊急入院したため出演していない。2018年11月4日に開かれた「寅さんサミット」で佐藤は当時のことについて「(自分が)助手席に乗っていたBMWが、100キロでガードレールに突っ込んじゃった。肋骨が5本折れた」と告白し、「2か月の重体。ワンカットも出られない。しょうがないね」と残念な想いを語っている。

1970年代から1980年代にはアフロヘアーにしていたが、『柳生一族の陰謀』、『戦国自衛隊』、『服部半蔵 影の軍団』などの時代劇でも丁髷のカツラを被らず、人の良い男をコミカルに演じ、そのヘアスタイルは佐藤の売りにもなっていた。

2022年12月10日午前10時過ぎ、東京都世田谷区の自宅浴室で風呂に浸かった状態で動かなくなっているのを親族が発見し、その場で死亡が確認された。死因はヒートショック現象に起因する虚血性心不全とみられている。78歳没。死亡日は9日と診断された。

引用元:佐藤蛾次郎 - Wikipedia



















2025年8月8日金曜日

新井素子 (小説家)



8月8日は、小説家の新井素子(あらい もとこ)の誕生日です。当初は所謂SF小説を書いていたが後にライトノベルへ移行した。後続へ多大なる影響を与え、所謂「モトコシタン(新井素子ファン)」を各界に数多く生んだ。

新井 素子(あらい もとこ、1960年〈昭和35年〉8月8日 -)は、日本の小説家。

ライトノベル作家の草分け的存在として知られている。夫は、書評や文庫解説などを手がけている手嶋政明。結婚後の本名は手嶋素子。日本SF作家クラブ元会長。日本推理作家協会会員。

東京都練馬区生まれ。両祖父、両親が共に講談社に勤めており、実家には常に大量の本があったため、幼い頃から多くの本に接して育った。

1977年、東京都立井草高等学校2年生のときに、第1回奇想天外SF新人賞に応募した『あたしの中の……』が佳作入選した。審査員の星新一が絶賛し最優秀作に推したが、小松左京や筒井康隆らが目新しい文体に違和感を覚え反対したため佳作となった。星は入選決定後に、新井素子の父が東京大学農学部での同級生だったことを知った。また、新井も星のファンであり、初めて読んだSFが星の『妖精配給会社』であった(星の著書「未来いそっぷ」の解説文も書いている)。

高校2年生という若さでの受賞及びデビューは文学界にも衝撃を与え、『ふぁんろーど』の特集などで「SF界のプリンセス」と称された。北野勇作や久美沙織ら同世代の作家に強い影響を与えたといわれている。

立教大学文学部ドイツ文学科に在籍しながら作家活動を続け、1981年『グリーン・レクイエム』で第12回星雲賞日本短編部門を受賞、1982年『ネプチューン』で第13回星雲賞日本短編部門を受賞した。1999年には『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞を受賞した。

2003年ごろから夫とともに囲碁をはじめ、日本棋院囲碁大使をつとめる。2009年から2011年まで日本SF作家クラブ会長。

デビューがSF誌『奇想天外』だったこともあり、しばらくはSFを中心に執筆していたが、1980年には高校生向け雑誌『高一コース』誌上で『星へ行く船』を連載した。また集英社文庫コバルトシリーズ(コバルト文庫)から『いつか猫になる日まで』を上梓するなど、活動の場をジュニア小説へも広げた。

同時代の口語表現を積極的に取り入れ、一段落を「が。」の2文字で終わらせて改行するなど規範を大きく逸脱した文体を高橋源一郎は『ラカンのぬいぐるみ』で「新口語文」と評価した。当時の口語表現を文体に反映した端的な例として、一人称「あたし」、二人称「おたく」という砕けた人称代名詞を多用したことなどが挙げられる。

引用元:新井素子 - Wikipedia



















2025年8月7日木曜日

五十嵐隼士



8月7日は、元俳優で現在実業家の五十嵐隼士(いがらし しゅんじ)の誕生日です。2006年4月「ウルトラマンメビウス」に主役ヒビノ・ミライ/ウルトラマンメビウス役で出演したことで名を挙げる。現在は役者は引退していて、新事業として障がい者就労移行支援と就労継続支援A型事業所「ウルトラマーリン」を始める。

五十嵐 隼士(いがらし しゅんじ、1986年8月7日 - )は、日本の男性実業家。元俳優でもある。ワタナベエンターテインメントに所属していた。

同事務所の若手男性俳優集団D-BOYSのメンバーでもあった。現在はYouTuberの活動をしながら経営者の顔を持つ。かつては六本木や静岡県のBARで店長もしていた。

2004年7月、「第1回D-BOYSオーディション」に出場し、準グランプリを受賞。同年10月、D-BOYSに加入。2005年5月、ドラマ『瑠璃の島』第5話にて不良少年役で俳優デビュー。2006年4月、特撮ドラマ『ウルトラマンメビウス』の主役、ヒビノ・ミライ / ウルトラマンメビウス役に抜擢される。同年9月、ファーストソロ写真集『mirai』を発売。

2010年3月、D☆DATEのメンバーとなった。2013年11月末日をもってワタナベエンターテインメントとの契約を終了、ならびに芸能界を引退。引退の理由については、「エンターテインメント以外の仕事にも興味が湧くようになり、一から勉強し、取り組んでみたい」とのこと。

2017年4月に、「ゆーき」とYouTubeチャンネルを開設し、5月まで動画投稿を行なった。9月にはNTTレゾナントの「gooランキング」による「意外な転身をとげた元芸能人ランキング」にて第2位となった。また、2018年12月には同ランキングによる「実は芸能界を引退していてびっくりした有名人ランキング」にて第16位となった。

2020年1月、不動産業経営者のYouTube動画に出演、東京都内や静岡県浜松市で複数の飲食店を経営していることを明かした。9月、『ウルトラ特撮 PERFECT MOOK vol.05 ウルトラマンメビウス』にて芸能界を引退してから7年ぶりに商業誌で新規取材のインタビューに応じた。

2022年12月30日放送のフジテレビのバラエティ番組『アウト×デラックス2022 禁断の復活 レジェンド大集合SP』に出演。芸能界引退後、約9年ぶりの地上波テレビ出演となった。

2024年6月、新事業として障がい者就労移行支援と就労継続支援A型事業所「ウルトラマーリン」を始める。2025年3月29日、ABEMAオリジナル番組「NO MAKE」に出演、芸能界を引退した理由を述べた。

引用元:五十嵐隼士 - Wikipedia























2025年8月6日水曜日

アラン・ホールズワース



8月6日は、イギリス出身のジャズギタリストである、アラン・ホールズワース(Allan Holdsworth)の誕生日です。主にジャズ・ロック、ジャズ・フュージョン、プログレッシブ・ロック界で活動、様々なバンドを渡り歩いて名声を高めた。2017年4月に死去した。70歳没。

アラン・ホールズワース(Allan Holdsworth、1946年8月6日 - 2017年4月15日)は、イギリス出身のジャズギタリスト。主にジャズ・ロック、ジャズ・フュージョン界で活躍。卓越した技巧を持ち、個性的な演奏を聴かせた。

イギリス・ウェスト・ヨークシャー出身。父は音楽家。最初の楽器はサックスとクラリネット、17歳からギターを弾く。1969年に、イギンボトムのギタリストとしてデビュー(リード・ボーカルも担当している)。その後、イアン・カーズ・ニュークリアス、テンペスト、ソフト・マシーン、ニュー・トニー・ウィリアムス・ライフタイム、ゴングなどといったプログレッシブ・ロック、ジャズ・ロックのバンドを渡り歩いて名声を高めた。

1978年には、プログレ界の大物が集ったU.K.に参加した。しかし、音楽的方向性の違いから、こちらもアルバム1枚で、ビル・ブルーフォードと一緒に脱退する。その後は、ビル・ブルーフォードとブルーフォードを結成したが、これもアルバム1枚で脱退する。

1980年代にはレコード会社と契約できない時期が続いたが、自主制作にてアルバム『I.O.U.』を発表。その後、ホールズワースに私淑するエディ・ヴァン・ヘイレンの助けを得て、大手ワーナー・ブラザース・レコードからアルバム『ロード・ゲームス』(1983年)を発表するが、メジャー・レーベルでは自由な活動ができないと感じ、以後はより小規模なレーベルからアルバムを発表するようになった。音楽的にはフュージョンに分類されるが、数多いギタリストの中でも屈指の高度な技巧を存分に発揮し、今日までジャンルにかかわらず、ミュージシャンズ・ミュージシャンとしてその名を広く知らしめるようになった。2003年には、ソフト・ワークス(ソフト・マシーンの元メンバーによるバンド)に参加するが、例によってアルバム1枚で脱退。

2008年から2010年にかけてはソロでの活動だけでなく、テリー・ボジオ、トニー・レヴィン、パット・マステロットとの連名バンド(HoBoLeMaとも称される)でもツアーを行っている(演奏曲はすべて即興)。

2009年、次回作がスティーヴ・ヴァイのレーベル、フェイヴァード・ネイションズからリリースされることが予告されるものの、結局未発表のまま2017年に死去することとなってしまった。

2011年2月、「彼は21世紀初めてとなるレコーディングを現在楽しんでいるよ」とギタリスト、ジミ・タンネルがFacebookのコメントで語った。

2017年4月に死去。70歳没。

引用元:アラン・ホールズワース - Wikipedia





















2025年8月5日火曜日

ミッチー・ラブ



8月5日は、日本の元女優だった、ミッチー・ラブ(Mitchi Love)の誕生日です。父親はアメリカ人で母親は日本人のハーフ。神奈川県横浜市出身で3歳の時に沖縄県に移住。主に志穂美悦子主演の映画や1977年「ジャッカー電撃隊」カレン水木/ハートクイン役で出演したことでお馴染み。1981年ごろに引退している。

ミッチー・ラブ(Mitchi Love、1960年8月5日 - )は、日本のハーフの元女優。本名、ミッチー・マーガレット・ラブ(Mitchi Margaret Love)。

神奈川県横浜市出身。サニー千葉エンタープライズに所属していた。

特技は、空手、体操。父親はアメリカ人で母親は日本人。

3歳の時に父親の仕事の都合で、沖縄県に移住。9歳の時に沖縄でロケをしていたテレビドラマ『キイハンター』(TBS)の撮影現場を観覧していたところを千葉真一の目にとまり、スカウトされる。

1974年に千葉を頼って上京、ジャパンアクションクラブ (JAC) に所属し、志穂美悦子主演のカラテ映画や、1977年放送の特撮テレビドラマ『ジャッカー電撃隊』(テレビ朝日)のカレン水木 / ハートクイン役で出演し、琉球空手をベースにしたアクションを披露していた。当時のプロフィールでは「何度も沖縄に帰ろうかと思ったが、遠くて帰ることができなかった。将来は良いお嫁さんになって三浦友和のような背の高い人と結婚したいです」と述べている。

『ジャッカー電撃隊』で共演した丹波義隆は、1988年のインタビューでミッチー・ラブが通訳や英語教師などを務めていることを証言している。

引用元:ミッチー・ラブ - Wikipedia


















ジャッカー電撃隊 - Wikipedia



2025年8月4日月曜日

渡辺文雄 (俳優)



8月4日は、俳優・タレントの渡辺文雄(わたなべ ふみお)の命日です。俳優としての活動の他「くいしん坊!万才」の初代リポーターや「遠くへ行きたい」のリポーターなどでお馴染み。2004年8月4日、急性呼吸不全のため東京都内の病院で死去。74歳没。

渡辺 文雄(わたなべ ふみお、1929年10月31日 - 2004年8月4日)は、日本の俳優、タレント、エッセイスト。東京府東京市神田区東松下町(現:東京都千代田区神田東松下町)生まれ。

旧制第二東京市立中学校(東京都立上野高等学校の前身)から旧制静岡高校(静岡大学の前身)を経て、1954年に東京大学経済学部を卒業し、電通に入社。翌年に電通から松竹に出向。1956年、出向先の松竹で小林正樹監督の映画『泉』に出演したことがきっかけで役者デビュー。その後電通を退社して松竹の専属俳優となる。この頃は、端整な顔立ちを生かしたヒロインの相手役が多かったが、本人はそれが嫌だったという。1961年、大島渚・小山明子らとともに松竹を退社し、創造社の結成に参加。以後、大島作品の常連俳優となる。1960年代後半から1970年代前半にかけて多くの東映ヤクザ映画で悪役として出演。仁義知らずの現代インテリヤクザの役が多かった。

『くいしん坊!万才』の初代リポーターとしても知られ、お茶の間にも広く顔が知れ渡るようになる。読売テレビの『遠くへ行きたい』のリポーターとしても知られ、2013年当時も同番組最多出演者の座にあった。これらの番組出演の経験を踏まえたエッセイも執筆しており、多くの著書がある。日本エッセイストクラブ会員。

2001年7月に飛騨・世界生活文化センター(岐阜県)の館長に就任。最晩年まで『遠くへ行きたい』や日本テレビの『おもいッきりテレビ』のゲストコメンテーター等、その知性を生かして多方面で活躍していたが、亡くなる約2か月前に体調不良を訴え入院。その際に肝臓癌であることが分かったが、入院から2週間後には意識混濁を起こすなど既に病状は末期症状を起こしており手の施しようがなかった。2004年8月4日午前1時47分に急性呼吸不全のため東京都内の病院で死去。74歳没。

引用元:渡辺文雄 (俳優) - Wikipedia























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