2025年3月12日水曜日

スティーヴ・ハリス (アイアン・メイデン)



3月12日は、イギリス出身のミュージシャンで、ヘヴィメタルバンド「アイアン・メイデン」のベーシストでリーダー、バンドの楽曲の作詞作曲のほとんどを担当するスティーヴ・ハリス(Steve Harris)の誕生日です。自身のソロプロジェクト「British Lion」でも活動。ソロシンガーの「Lauren Harris」はスティーヴ・ハリスの娘である。

スティーヴン・パーシー・ハリス(Stephen Percy Harris、1956年3月12日 - )は、イギリス、ロンドンのイーストエンド出身のミュージシャン。ヘヴィメタルバンド「アイアン・メイデン」のベーシストかつリーダーであり、バンドの楽曲の作詞・作曲の多くを担当する。身長174cm。

少年時代はウェストハム・ユナイテッドのユース・チームに所属するサッカー少年であり、将来を嘱望された優秀なプレイヤーであった。 17歳の時にテレキャスターのコピーモデル・ベースを約40ポンドで購入し、独学でベースを学び始める。彼にとっての最初のバンドはジプシーズ・キッス(結成時のバンド名はインフルエンス)。その後スマイラーに参加し、年配のメンバーに囲まれて音楽的センスを磨いていく。しかしハリスは自作曲の演奏を望み始め、これを叶えるために1975年に自らのバンド、アイアン・メイデンを結成した。

フェンダー社のプレシジョンベースを強烈に指弾きする独自のプレイスタイルは人気が高く、メタル専門誌 『BURRN! 』の ベスト・ベーシスト部門のチャンピオンに何度も輝くなど、ビリー・シーンと人気を二分する存在である。

影響を受けたベーシストには、UFOのピート・ウェイ、イエスのクリス・スクワイア、ジェネシスのマイク・ラザフォード、ラッシュのゲディー・リー、フリーのアンディ・フレイザー、ウィッシュボーン・アッシュのマーティン・ターナー、ブラック・サバスのギーザー・バトラー、ザ・フーのジョン・エントウィッスルが挙げられている。

なお、長女ローレン・ハリスはロック歌手で、既にレコード・デビューも決まっている。2008年のアイアン・メイデンのワールドツアーでは、サポート・アクトとして同行、来日を果たしている。

2012年に初のソロ・アルバム(実質的にはソロプロジェクト)、『英吉利の獅子』(原題"British Lion")をリリースした。

2016年にONKYOとスティーヴが共同開発したモニターヘッドフォン「ED-PH0N3S(エド・フォンズ)」を発売した。

引用元:スティーヴ・ハリス - Wikipedia












アイアン・メイデン - Wikipedia



2025年3月11日火曜日

BORO (シンガーソングライター)



3月11日は、シンガーソングライター・プロデューサーのBORO(ボロ)の誕生日です。本名は森本尚幸。1979年5月に萩原健一が歌っていた「大阪で生まれた女」のヒットを受け、8月1日に自身の2作目のシングルとして発表した「大阪で生まれた女」が大ヒット。以降現在までシンガーソングライターとして活動をする。

BORO(ボロ、本名: 森本 尚幸〈もりもと なおゆき〉、1954年3月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、兵庫県伊丹市出身。

1954年、兵庫県伊丹市出身。

BOROという名前は、中学2年生の頃、彼が乗っていた、古くておんぼろだけど愛用の自転車をテーマにした『ボロの相棒』という自作の詩が、県のコンクールで入賞したことをきっかけに、友人達がつけたニックネーム。自らのミュージシャンとしての使命を“民衆の苦しみの代弁者”と自覚する本人がそのニックネーム「BORO」をそのまま芸名とした。

1972年、高等学校卒業後に上京し、池袋の3畳1間のアパートで暮らしながら、日本声専音楽学院ジャズ科でティーブ・釜萢に師事し、2年間ジャズ・ボーカルを学んだ。

その後、池袋を引き上げ、伊丹に戻ったのち、大阪・北新地のナイトクラブでギターの弾き語りをしていたが、その店を訪れた内田裕也に才能を見出され、1978年夏に大阪でレコーディング。内田のプロデュースにより、ポリドール・レコードに新たなレーベル「カメリア・レコード」が設立され、シングル「都会千夜一夜」で1979年6月1日にデビューした。

デビューと同時に再び上京。BOROのデビューに先立ち、同年5月に萩原健一がリリースしていた「大阪で生まれた女」のヒットを受け8月1日に自身の2作目のシングルとして発表した同曲が大ヒット。同年の第12回 日本有線大賞最優秀新人賞等の賞を受賞した。

以来40年にわたる音楽活動の中で、23枚のアルバム、10枚のベスト・アルバム、23枚(配信)のシングルを発表している(2022年9月現在)。

音楽プロデューサーとして、沢田研二、松田優作、根津甚八、雪村いづみ、梓みちよ、田中裕子、島田紳助、近藤真彦、小泉今日子、森進一、八代亜紀、山田邦子、オール巨人、葛城ユキ等、ジャンルを超えた数多くのアーティストに楽曲を提供している。

1990年からは再び活動拠点を大阪に戻し、意欲的にライブ活動を続ける傍ら、1994年11月1日に自身のレコード会社「BBB Records」を設立。2004年、BBB Records専用スタジオ「BOROの音符工房」を神戸市北区の生野高原に竣工。自身及び、所属アーティストのプロデュース、レコーディング等を行い、CD販売、「ONPU SHOP」内、音楽配信コーナーでの楽曲配信事業を行ってきた。(2023年3月31日 法人としての活動を停止)

引用元:BORO - Wikipedia





















2025年3月10日月曜日

奥山かずさ



3月10日は、グラビアモデル・女優の奥山かずさ(おくやま かずさ)の誕生日です。2018年のスーパー戦隊シリーズ「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」に明神つかさ/パトレン3号役でレギュラー出演したのが女優デビュー作となる。

奥山 かずさ(おくやま かずさ、1994年3月10日 - )は、日本のグラビアモデル、モデル、女優。青森県三沢市出身。宮城教育大学卒業。

仙台市でスカウトされたことをきっかけとして、モデル活動を開始(同市にある芸能事務所「MOC Model Agency」に所属)。芸能活動は20歳(大学3年時)からであるが、半年で仙台コレクション(女性向け)の舞台を踏み、その一方で週刊ヤングジャンプ「ギャルコン2014」(男性向け)にエントリーして最終選考の8人のうちの1人となり、準グランプリを受賞。しかし、当時は上京して芸能活動を始める方法が分からなかったことから、2015年から翌年にかけてスポーツランドSUGO(宮城県村田町)所属のレースクイーン(宮城県外でのイベント出演等はある)を務めたり、仙台でモデル活動をしていた。

2016年に、オスカープロモーション主催の「第1回ミス・美しい20代コンテスト」にて準グランプリを受賞したのを機に、東京進出の足掛かりを得た(当時22歳)。野球・ソフトボール経験者として、2017年1月放送のTBS系列『発見! ○○な人』の「神スイングで話題の稲村亜美より特大ホームランを打つ美女がいる?」に出演。

2018年放送開始の「スーパー戦隊シリーズ」『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』にて、明神つかさ / パトレン3号役で出演。同作が女優としてのデビュー作となり、同時に拠点を東京に移した。

同年『週刊ヤングマガジン』と『週刊プレイボーイ』で初グラビアを披露。

2023年2月14日、会社員と結婚したことを所属事務所の公式サイトにて発表。同年3月に結婚相手がテレビ朝日アナウンサーの武隈光希であることを複数の報道機関が報じ、第1子妊娠を公表。9月4日には、8月の第1子出産が報告された。

引用元:奥山かずさ - Wikipedia






















快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー - Wikipedia



2025年3月9日日曜日

MISATO ANDO (元 BiSH・リンリン)



3月9日は、現在はアート活動(芸術家)の活動をする、ガールズグループ「BiSH」元メンバーのリンリン(無口担当)の誕生日です。現在は「MISATO ANDO(ミサト アンドウ)」名義で活動をしている。

BiSH(ビッシュ)は、2015年から2023年6月29日まで活動した日本のガールズグループ。キャッチコピーは「楽器を持たないパンクバンド」。媒体によって、アイドルグループやアーティストグループにも分類される。所属事務所はWACK。レーベルはavex trax。

リンリン

誕生日 3月9日
出身地 静岡県
血液型 不明
担当 無口
ファンの俗称 リンリン☆テレフォンズ

2015年8月加入
iNNOCENT ASSメンバー
2023年6月30日より「MISATO ANDO」に改名し、アート活動を行う

引用元:BiSH - Wikipedia



MISATO ANDO
ミサト アンドウ

東京を拠点に活動する美術家。

「楽器を持たないパンクバンド」BiSHの活動を2023年に終え、同年美術家としての活動をスタート。

自信の「妄想力」を武器に、独自の発想と色使いで独創的な世界観をドローイング、インスタレーション、版画、立体など様々な手法を用いて表現する。
また、コラムニスト、ラジオパーソナリティなど、美術家の枠に囚われず活動の幅を広げている。

引用元:Biography[バイオグラフィー] - ミサトアンドウドットコム





















2025年3月8日土曜日

高木ブー (ザ・ドリフターズ)



3月8日は、コメディアン・ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)である、高木ブー(たかぎ ブー)の誕生日です。コントグループ「ザ・ドリフターズ」のメンバーでもある。

高木 ブー(たかぎ ブー、boo Takagi、1933年〈昭和8年〉3月8日 -)は、日本のコメディアン、ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)。ザ・ドリフターズのメンバー。

本名は、高木 友之助(たかぎ とものすけ)で、高木ブーへの改名以前は高木 智之名義で活動していた。また、全員集合のオープニングなどでは、高木 ブ~名義で表記されていた。身長160 cm。芸名の由来となったのは若い頃からの肥満体型である。

大学卒業後は東京ガスの採用が内定していたが、それを蹴ってプロのミュージシャンとなる。これは学生時代からハワイアンバンドとしてバイトしており、すでに当時の大卒の初任給より多いギャラをもらう月もあったことから、「まぁ、なんとかなるだろう」と楽観的に音楽の道に進むことを決めた。

当時の芸名は高木智之で、自身がバンドのリーダーを務める「高木智之とハロナ・セレナーダス」「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」を結成。

「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」のバンドマンとして日本の芸能界での活動を始める。1960年代前半にエレキブームが到来したことで新バンド「ロジェ滋野とシャドーズ」を結成。「パップ・コーンズ」時代に仲本工事と出会い次の「シャドーズ」でも行動を共にし、2人はザ・ドリフターズに加入することになる。

高木自身は当初、楽器の腕前を買われてスカウトされたものと思っていたが、後年いかりやにスカウトの理由を尋ねたところ、「太っていてコミックバンド向きの外見だから、新生ドリフにスカウトした」と言われたという。

1984年9月14日、『8時だョ!全員集合』のリハーサル中に両足のアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱している。

1985年9月28日に『全員集合』が終了し、その後はドリフとしての活動と並行して、単独での活動も開始した(本人によると『全員集合』終了後、ドリフのメンバーで最初に単独の仕事をしたのは高木だという)。

同じ1985年にはフジテレビ『ドリフ大爆笑』の「長介・工事・ブー おなじみ雷様」コントがシリーズ化され、「雷様」が高木の当たり役となる。以後、雷様の扮装(角付き・緑のアフロヘアーのかつらに緑色の全身タイツと虎柄ショートパンツ)がトレードマークとなる。

1999年4月から6月に放送されたNHK教育テレビ『趣味悠々 高木ブーの今すぐ始めるウクレレ』に講師として出演した。

2023年、90歳の誕生日を迎えた記念に2冊目の自伝『アロハ90歳の僕 ゆっくり、のんびり生きましょう』(小学館)を出版。高木は90歳になる前から100歳現役を目標にしていたが、彼より10歳下の加藤も同じく100歳現役を目指すことを宣言したため、これに対抗して自分は110歳まで現役を続けることを新たな目標にしたと自伝の中で語っている。

引用元:高木ブー - Wikipedia


















ザ・ドリフターズ - Wikipedia



2025年3月7日金曜日

岡まゆみ



3月7日は、女優・歌手の岡まゆみ(おか まゆみ)の誕生日です。1978年から1984年にかけて出演した「まんがはじめて物語」で2代目お姉さん役での活躍が有名。歌手活動も行っている。

岡 まゆみ(おか - 、本名:五十嵐 まゆみ(いがらし - )、1956年3月7日 - )は、日本の女優、声優、歌手。本名でも活動していた。女子美術短大中退。所属事務所はぷろだくしょん「道」→劇団四季→ラヴァンス→ホリプロ・ブッキング・エージェンシー。身長158cm。B80cm、W57cm、H83cm(1976年7月)。独身。

1974年1月、フジテレビのドラマ『春ひらく』を見学した際、岡田太郎ディレクターの目に留まりスカウトされる。芸名は岡田太郎・吉永小百合夫妻から付けてもらった。1975年、フジテレビ『歌だ!飛び出せ2万キロ』のリポーターや、同局『クイズグランプリ』のアシスタントでテレビに登場。

1976年、TBSポーラテレビ小説『絹の家』で岡まゆみの名で主演デビュー。放送時間帯がNHK連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のお昼の再放送とかち合ったが、岡の可憐さに人気が集まり平均視聴率19%を獲得、『雲のじゅうたん』に5%差を付けた。主役に抜擢してくれたTBSに恩義を感じ、各局からオファーが殺到したが、以降もTBSを中心にテレビ出演した。以後、大映テレビ制作ドラマに常連出演する。クイズ番組にも出演したため、顔が知られはじめる。

1978年から1984年にかけ、『まんがはじめて物語』で病気治療のために降板したうつみ宮土理からお姉さん役を引き継いで最終回まで出演。

1983年、劇団四季に再入団し、本名の五十嵐まゆみで活動する。

1989年、劇団四季を退団し、芸名を岡まゆみに戻し現在に至る。ドラマのほか、舞台の主演も少なくない。

2014年からは、自身プロデュースによるオリジナルジュエリーブランド Ondine [オンディーヌ] を立ち上げ商品の販売を開始している。女優になるきっかけとなった舞台名から「オンディーヌ」と名付けた。

近年は洋画の吹き替えなど、声優としての活動も多い。

引用元:岡まゆみ - Wikipedia




















まんがはじめて物語 - Wikipedia



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