2025年4月30日水曜日

ウィリー・ネルソン



4月30日は、アメリカのカントリー・シンガーでギタリスト・俳優でもある、ウィリー・ネルソン(Willie Nelson)の誕生日です(4月29日の表記)。1950年代から音楽活動を始め、1975年のシングル「雨の別離」(原題:Blue Eyes Crying in the Rain)が、ビルボード誌のカントリー・チャートで1位を獲得した。1982年には「オールウェイズ・オン・マイ・マインド」が大ヒットとなった。

ウィリー・ヒュー・ネルソン(英語: Willie Hugh Nelson, 1933年4月29日 - )はアメリカのカントリーのシンガーソングライター、ギタリスト、俳優である。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第88位。2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第77位。

テキサス州フォート・ワース近郊アボット出身。イギリス、アイルランド、チェロキーの血を引く。生後まもなく母親が家を出、父親も再婚したために姉妹と共に祖父母に育てられる。ベイラー大学中退。1950年代から音楽活動を始めた。しかし歌手としての芽は出ず、作曲家としての仕事が主だった。当時は、カントリーのパッツィ・クラインに書いた曲がヒットしている。やがて彼は、1960年代後半のヒッピー・ムーブメントに強い影響を受け、同時にさまざまな音楽性を吸収する。

1975年のシングル「雨の別離」(原題:Blue Eyes Crying in the Rain)は、ビルボード誌のカントリー・チャートで1位を獲得し、グラミー賞のベスト・カントリー・ボーカル(男性)部門を受賞。1970年代半ばからはウェイロン・ジェニングスをパートナーとして活動するようになり、数々のヒットを放った。また枯れた歌声、保守的なカントリー界にあってヒッピー的なスタイル、ドラッグの使用、ジャズなども歌う多様な音楽性は異彩を放った。そのため、保守的な従来のカントリーが主流だったナッシュビルからは異端児と見られ、彼とジョニー・キャッシュ、ウェイロン・ジェニングス、クリス・クリストファーソンらの音楽は「アウトロー・カントリー」と呼ばれた。1980年には「オン・ザ・ロード・アゲイン」がヒットしている。また、ジャズ・アルバムの「スターダスト」を発表している。ネルソンはブッカーT・ジョーンズや、チップス・モーマンらとも仕事をしている。1982年には「オールウェイズ・オン・マイ・マインド」が大ヒットとなった。

ウィリー・ネルソンは、フォークやロック、R&B、ジャズのミュージシャンとの交流に見られるように、クロスオーバーな活動を続けたことにより、様々なジャンルのミュージシャンからの支持を集めた。

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分(ディオンヌ・ワーウィックの次、アル・ジャロウの前)でリードボーカルをとった。また同年、ニール・ヤングやトム・ペティ、ジョン・メレンキャンプ、ジョン・フォガティ、ボブ・ディランらとともに、新自由主義のレーガン政権の農業政策により困窮する、アメリカの農家のためのチャリティーイベント、「ファーム・エイド」を開催した。ファーム・エイドは1回だけでなく、その後も開催された。またネルソン自身、大学では農業を学んだほか、ヒッピー思想も相まって自然志向が強い。バイオディーゼルの普及活動にも取り組んでいる。

そして同年にジョニー・キャッシュ、ウェイロン・ジェニングス、そしてクリス・クリストファーソンの3人と共に「ザ・ハイウェイメン」を結成し、バンドとして3枚のアルバムを出して1995年まで活動した。2009年にはハワイ州マウイ島に住んでいる。

2015年、ポピュラー音楽によって世界の文化に多大な影響を与えたことを讃えてガーシュウィン賞が贈られることが決まった。また、彼は「アメリカーナ」のジャンルでも評価されるようになった。山下達郎も、ウィリー・ネルソンを好きだと語っている。

引用元:ウィリー・ネルソン - Wikipedia























2025年4月29日火曜日

小坂忠



4月29日は、シンガーソングライター・ゴスペルシンガー・牧師の小坂忠(こさか ちゅう)の命日です。1966年、GSバンド「ザ・フローラル」を結成、ボーカルで活動。1969年に細野晴臣、松本隆が参加、「エイプリル・フール」に改名。1972年、林立夫、松任谷正隆、後藤次利、駒沢裕城と「小坂忠とフォージョー・ハーフ」を結成。他に「ティン・パン・アレー」とのコラボレーションでもお馴染み。日本のロック界に多大なる功績を残す。1976年にクリスチャンとなり以降ゴスペルシンガーとして活動。2022年4月29日、癌により死去。73歳没。

小坂 忠(こさか ちゅう、1948年7月8日 - 2022年4月29日)は、日本のシンガーソングライター、作曲家、ゴスペルシンガー、牧師。本名は小坂 正行(こさか まさゆき)。

東京都練馬区出身、埼玉県志木市生まれ。1966年、GSバンド「ザ・フローラル」を結成。モンキーズ・ファンクラブ日本支部が公募したオーディションに合格し、1968年に日本コロムビアより小坂忠(ヴォーカル)に柳田ヒロ(キーボード、ギター)、杉山喜一(ベース)、義村康市(ドラム)、菊池英二(ギター)といったメンバーでデビューし、シングル2枚を残したが、GS人気の翳りから事務所はGSバンドから本格的なロックバンドに転換することとし、付いていけなかった杉山と義村が脱退。

1969年、杉山と義村が抜けたフローラルにスカウトで細野晴臣、松本隆が参加、細野のアイデアで「エイプリル・フール」と名前を変え活動開始、アルバム「APRYL FOOL」を残す。エイプリル・フール解散後、ロックミュージカル「HAIR」出演。この出演により、はっぴいえんどの前身バンド「ヴァレンタイン・ブルー」への参加を断念。

1971年、村井邦彦、川添象郎、ミッキー・カーチスらが設立したマッシュルーム・レーベルよりソロアルバム『ありがとう』をリリース。同年11月6日、高叡華と結婚。

1972年、林立夫、松任谷正隆、後藤次利、駒沢裕城と「小坂忠とフォージョー・ハーフ」を結成。その他、CM音楽やNHK「おかあさんといっしょ」の作曲も手掛ける。

1975年、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆を中心に結成されたティン・パン・アレーの演奏によるオリジナルアルバム『HORO』リリース。

1976年、2歳の娘(小坂亜実/Asiah)が重度の火傷から奇跡的に回復したことを機に、クリスチャンとなる。

1978年、日本初のゴスペルレコード会社「ミクタムレコード」設立。ゴスペル・シンガーとして活動の場を移す。

1991年、埼玉県所沢市の日本フォースクエア福音教団秋津福音教会の牧師になる。

2000年、「Tin Pan」名義で再結成したティン・パン・アレーのコンサートにゲスト出演。25年ぶりの共演となった。

2001年、11月、25年ぶりとなる細野のプロデュースによるアルバム『People』をリリース。

2022年4月29日午前10時43分に死去したことが公式サイトにて報告された。S字結腸癌から転移した癌による肝不全も患い、5年に及ぶ闘病生活を送っていた。73歳没。

引用元:小坂忠 - Wikipedia








エイプリル・フール (バンド) - Wikipedia













2025年4月28日月曜日

ヴィクトリア・デ・アンジェリス (マネスキン・ベーシスト)



4月28日は、イタリアのロックバンド「マネスキン(モーネスキン)」の女性ベーシストである、ヴィクトリア・デ・アンジェリス(vikˈtɔːrja de ˈandʒelis)」の誕生日です。イタリア・ローマで生誕した。Måneskinのパフォーマンスではいつもテープで乳首を隠して、トップレスの衣装でライブ・パフォーマンスを行うことについて、本人は「誰しもが自分らしくいられるべきで、自分が好きな見た目であっていい」と思っているものの、「女性の身体というのはいつだって性的に見られて(来た)」と言い、「それは最悪なこと」で「乳首を隠さざるを得ない」理由だと説明。本当は乳首さえ出していたいほどだという。

マネスキン(Måneskin)は、イタリアのロックバンド。バンド名はデンマーク語で「月光」の意味。ベーシストのヴィクトリアの母親がデンマーク人であったことから、この名称に決定。

引用元:マネスキン - Wikipedia



ヴィクトリア・デ・アンジェリス(イタリア語: [vikˈtɔːrja de ˈandʒelis]、2000年4月28日 - )は、ロックバンド『マネスキン(Måneskin)』のリードベーシストとして知られるイタリアのミュージシャン。

デンマーク人の母とイタリア人の父の間にローマで生まれた。母は彼女が15歳の時に癌により亡くなった。3歳年下の妹がいる。幼い頃からロックミュージックは自由への願望を体現していたと公言した。幼い頃から音楽への情熱と好意を抱いており、8歳でギターを弾き始め、中学1年生でベースを弾き始めた。

2021年2月のコリエーレ・デラ・セラでのインタビューで、ヴィクトリアはバイセクシュアルと自称した。また、ダミアーノは女優のダヴ・キャメロンと交際している。

Måneskinのパフォーマンスではいつもテープで乳首を隠して、トップレスの衣装でライブ・パフォーマンスを行うことについて、本人は「誰しもが自分らしくいられるべきで、自分が好きな見た目であっていい」と思っているものの、「女性の身体というのはいつだって性的に見られて(来た)」と言い、「それは最悪なこと」で「乳首を隠さざるを得ない」理由だと説明。本当は乳首さえ出していたいほどだという。2022年、サマーソニックの大阪ステージでは、途中でテープが剥がれたまま演奏している。

ELLEのインタビューで14歳のときにパニック障害に苦しみ、そのせいで1年間学校を休んだことを明かしている。中学校のスクオラ・メディア・ジャニコロに通い、そこで同バンドメンバーのトーマス・ラッジと出会い、その後リセオ・クラシコ・ヴィルジリオで学校を卒業した。影響を受けた人物としてニック・オマリー(アークティック・モンキーズ)とキム・ゴードン(元ソニック・ユース)を挙げている。

引用元:ヴィクトリア・デ・アンジェリス - Wikipedia


















マネスキン - Wikipedia



2025年4月27日日曜日

新條由芽 (夢咲はゆ)



4月27日は、元女優の新條由芽(しんじょう ゆめ)の誕生日です。群馬県出身。「夢咲はゆ」名義でフリーモデル兼コスプレイヤーとして活動していたが、「新條由芽」名義で「3年A組-今から皆さんは、人質です-」で女優デビュー、「魔進戦隊キラメイジャー」速見瀬奈/キラメイグリーン役でブレイク。期待されたが2024年3月31日をもって芸能界を引退した。

新條 由芽(しんじょう ゆめ、1998年4月27日 - )は、日本の元女優。群馬県出身。元A-Plus所属。2024年3月31日を以って芸能界を引退した。

フリーモデル兼コスプレイヤーとして活動している際に『週刊ヤングジャンプ』(2018年、No.10、2月8日発売号、集英社)の巻末ページに掲載された。このグラビアページをA-Plus代表が見たことで同社への所属が決まった。A-Plusからスカウトを受けた際には、芸能界に興味はなく、元々人前に出るのが苦手なタイプでもあったことから悩んでいたが、「あなたは演技や映像の中で輝ける人だから、絶対やった方がいい」と強く推され、ここで断ったら今後始めるきっかけはないと思い、所属を決意した。

2018年末には所属事務所の先輩、吉岡里帆とともに『週刊プレイボーイ』(集英社)創刊52周年アドボード広告に抜擢。初グラビアを飾る。10月22日発売の『週刊プレイボーイ』45号で初の水着グラビアを披露した。

2019年1月から放送された『3年A組-今から皆さんは、人質です-』(日本テレビ)で女優デビューを果たした。5月から『サンセット5』(エフエム群馬)の1コーナー「シークレットアワー」で名前と顔を隠し、いろはとしてパーソナリティを担当。2020年2月に番組内で正体を明かした。このコーナーは後に、第57回(2019年度)ギャラクシー賞のラジオ部門で奨励賞を受賞した。2020年4月からは同局の『POTLUCK』(エフエム群馬)の1コーナー「新條由芽 黄昏ミュージック」を担当している。

2020年3月8日から放送されたスーパー戦隊シリーズ『魔進戦隊キラメイジャー』(テレビ朝日)にダブルヒロインの一人・速見瀬奈 / キラメイグリーン役で出演。速見瀬奈は女子陸上界のスーパースターという設定だが本人は中学・高校時代は6年間茶道部で、元々体育は苦手だったと語っている。メイン監督の山口恭平は、新條が自身と正反対のキャラクターを演じることにやり辛さを見せていたが、次第に本人の明るさが反映されたり、走りの特訓を行うなどして役をものにしていったと証言している。

2021年1月15日に自身初の写真集『ゆめいろ』が同年2月25日に発売されることを発表した。

2024年1月29日、同年3月31日をもってA-Plusを退所し、芸能界を引退することを発表した。

引用元:新條由芽 - Wikipedia


















魔進戦隊キラメイジャー - Wikipedia




夢咲はゆ(ゆめさきはゆ) とは|KAI-YOU キーフレーズ



2025年4月26日土曜日

島本和彦 (漫画家)



4月26日は、漫画家・実業家の島本和彦(しまもと かずひこ)の誕生日です。独特のタッチで熱血風マンガを描く人として知られる。主な作品に「炎の転校生」「逆境ナイン」「燃えよペン」「吼えろペン」「アオイホノオ」など多数。

島本 和彦(しまもと かずひこ、1961年〈昭和36年〉4月26日 - )は、日本の漫画家・実業家。本名:手塚 秀彦(てづか ひでひこ)。北海道中川郡池田町出身、北海道札幌市在住。漫画プロダクション「ビッグバンプロジェクト」代表、株式会社アイビックおよび株式会社アカシヤ代表取締役社長。主な作品に『炎の転校生』、『逆境ナイン』、『燃えよペン』、『吼えろペン』、『アオイホノオ』がある。

小学校のころから鉛筆でギャグ漫画を描き始める。札幌清田高校時代は陸上部と演劇部に所属する一方生徒会長も務め、アニメや特撮のパロディ漫画も執筆していた。

卒業と同時に北海道を離れ、伯父(父の兄)が大阪に住んでいたこともあり、大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(映像学科)進学のため転居。在学中の1982年(昭和57年)、『週刊少年サンデー』2月増刊号にて「必殺の転校生」でデビュー。デビュー後の大学を4年に上がる手前で中退して大阪を離れ上京、プロの漫画家生活に入る。

「島本和彦」のペンネームを使ったのは「漫画の神様手塚治虫に遠慮して」とのことだが、後に自分の作品が「手塚漫画」と呼ばれることを避けるためでもある。デビュー当初『サンデー』誌上でも、読者に本名を聞かれた際に「謎である」と秘密にしていた。

1990年代前半からはまんが甲子園の審査員としても活動。

1994年(平成6年)にスーパーファミコンで発売されたRPG『ライブ・ア・ライブ』における『近未来編』のキャラクターデザインを担当。その本編中に出てくる巨大ロボット「ブリキ大王」には、主題歌「GO!GO!ブリキ大王」がある。ゲーム中では開発者達が考えた1番の歌詞しか出てこないが、製作サイドでは2番3番の歌詞を一般公募していた。そこに島本が「東京都在住、漫画家、島本和彦」の名前で、一般公募で応募したところ、2番の歌詞として即採用された。

1995年(平成7年)に東京から札幌に帰郷。それと前後して同人誌活動も行い、コミックマーケットにはほぼ毎回参加。

2001年(平成13年)から2008年(平成20年)にはラジオ番組『島本和彦のマンガチックにいこう!』(STVラジオ)のパーソナリティも務めた。

2015年(平成27年)に『アオイホノオ』で第60回小学館漫画賞一般向け部門、第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。

2021年(令和3年)6月19日、同年8月上旬より「復活!令和もお笑いマンガ道場」のタイトルで27年ぶりにYouTube配信番組として復活する「お笑いマンガ道場」に回答者として出演。

引用元:島本和彦 - Wikipedia























2025年4月25日金曜日

富永一朗



4月25日は、漫画家の富永一朗(とみなが いちろう)の誕生日です。ジャンル的には所謂「ギャグ漫画」というものだが、何よりテレビ番組「お笑いマンガ道場」にレギュラー出演していたことが最も有名だろう。2021年5月5日、老衰のため自宅にて死去。96歳没。

富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - 2021年5月5日)は、日本の漫画家。勲等は勲四等。称号は岡山県高梁市(旧:川上郡川上町)名誉市民。

1951年4月に教職を辞して上京し、母が洋裁の仕事をしていた代田橋の母子寮に潜り込み、帝国興信所の臨時雇いとして会社年鑑の編纂をしながら『サンデー毎日』に漫画を投稿。当時、新富町の帝国興信所の向かいに新太陽社(旧・モダン日本社)があったため『モダン日本』編集部に作品を持ち込んだところ、編集者時代の吉行淳之介から才能を認められ、後に吉行が移った三世社の『講談讀切倶楽部』に作品を多数掲載された。

1953年頃から「赤本」と呼ばれた子供向け漫画単行本や貸本漫画を描くようになる。このころの作品に『少年姿三四郎』(きんらん社、1954年-1955年)、『夕月の母』(きんらん社、1956年)、『ルリ子の歌』(きんらん社、1956年)などがあり、これら子供向けの作品と併行して大人向けの漫画も描き続けた。1955年に母方の従姉と結婚し、世田谷区赤堤に新居を持つ。

1958年、新聞記者の紹介で近所の杉浦幸雄を訪問して『週刊大衆』に連載していた『ゴンさん』の原稿を見せたところ、才能を認められ、『漫画サンデー』の編集者・峯島正行に紹介されて連載のチャンスを得て、下積み生活から脱出。この『ゴンさん』は、1ページあたり3本の4コマ漫画を複数ページにわたり掲載した、現在の4コマ漫画の雑誌連載形態として一般的なものであるが、富永本人は「この方式は僕が初めてではないか」と語っている。35歳の時に描き始めた『チンコロ姐ちゃん』が代表作となったが、女性の裸など下ネタを堂々と扱う作風が一部で嫌悪され、新聞紙上で「日本マンガの堕落」(伊藤逸平)と批判されたこともある。

週刊誌の創刊ブームが追い風となって人気を獲得したが、仕事を断れない性格が災いし、やがて同時に25本の連載を抱えるにいたった。杉浦と近藤日出造が「あのままじゃ、あいつは死んでしまう」と案じ、『ポンコツおやじ』を連載していた『漫画サンデー』に富永の原稿料を4倍与えさせ、代わりに富永に「他の類似漫画誌には描かない」と確約させた。これは雑誌連載漫画における専属契約システムの嚆矢とされる。1962年11月に、杉浦や近藤が率いる漫画家グループ「漫画集団」に加入。

1976年より1994年まで放送された長寿番組、『お笑いマンガ道場』にレギュラー出演。番組中で共演者の鈴木義司に「オバケナマコ」「デブの恵まれない人」「サンショウウオ」「タラバカガニ」などとこき下ろされる一方、鈴木を「土管に住んでいる貧乏人」「ケムシ・ミノムシ」「アホウドリ」(実在のそれではない。首だけ鈴木の架空の鳥)などとこき下ろし、そのやりとりで人気を博した(実際は富永は鈴木とは互いに盟友と公言してはばからないほどの数十年来の友人同士であり、鈴木に誘われてマンガ道場に出演したため、鈴木が亡くなった時富永は「元気になったらまた一緒に『マンガ道場』でもやろうぜと言ってたのに…」と肩を落とした)。同番組のエンディングでほかの出演者と一緒に手を振ったときに、富永だけはいつも手を斜め前に(ナチス式敬礼の様に)上げただけで、掌を振る仕草は見られなかった。手を振らなかった理由について富永は、「母親から『男が手を振ることはみっともない』、『男はいつもピシッとしてなさい』と言われていたため、いつもピシッと手を挙げている」と語っていた。

1992年に紫綬褒章、1998年に勲四等旭日小綬章を受章。

恰幅いい体型がトレードマークだったが、還暦を超えて糖尿病と診断され、一転生活を改めた。「健康じいさん」を自称し、模範患者として医療関係のシンポジウムや講演を通じて啓発活動を行い、闘病記も著した。近時は各種マンガ・絵画コンテストの審査員などを務めていた。

歌をうたうのが大好きで、「一日うちにいるとまず30曲は歌います」という。

生前寿陵墓をすがも平和霊苑内に建立している。自らのキャラクターであるチンコロ姐ちゃんが花を手向けている絵が彫刻されている。

2021年5月5日15時30分、老衰のため東京都世田谷区の自宅にて死去。96歳没。先述の妻との間に子はおらず、2002年に死別後はひとり暮らしをしていた。墓所は豊島区功徳院すがも平和霊苑。

引用元:富永一朗 - Wikipedia












お笑いマンガ道場 - Wikipedia



人気の投稿(過去7日間)