2024年5月31日金曜日

日髙のり子 (日高のり子・伊東範子)



5月31日は、声優・ラジオパーソナリティ・歌手の日髙のり子(ひだか のりこ)の誕生日です。代表作は「タッチ」(浅倉南)、「となりのトトロ」(草壁サツキ)、「らんま1/2」(天道あかね)などがある。

日髙 のり子(ひだか のりこ、1962年〈昭和37年〉5月31日 - )は、日本の声優、女優、ラジオパーソナリティ、ナレーター、歌手、元アイドル。東京都千代田区九段出身。ビッグ・マウント所属。

代表作は『タッチ』(浅倉南)、『となりのトトロ』(草壁サツキ)、『らんま1/2』(天道あかね)など。

10歳の時に児童劇団養成所に入所し子役として活動。11歳の時に初舞台。その後も演じることに興味を持ち続け、朗読コンクールで小学館賞を受賞したこともあった。1977年のNHKドラマ『未来からの挑戦』でドラマ初出演。少年ドラマ、特撮もの、舞台に出演していた。高校時代にはいとう のりこ名義でアニメ『ふたごのモンチッチ』の主題歌「ふた子のモンチッチのうた」の歌唱を担当し、キャンペーンのお姉さんとして着ぐるみとともに全国を回ったこともある。

1979年2月から1980年1月まで放送された『バトルフィーバーJ』にて、本名の伊東範子名義で中原ケイコ役で出演。

1980年に「初恋サンシャイン」でアイドルデビュー。

NHK『レッツゴーヤング』において「サンデーズ」のメンバーになり、ある程度名は売れたものの、その後アイドルとしては失速して行き、苦労続きの日々を送ることになる。

後にテレビアニメ『超時空騎団サザンクロス』(ムジカ・ノヴァ役)で声優デビューを果たした。1985年からは『タッチ』でヒロイン・浅倉南役を担当し、声優としての知名度を上げる。その後『トップをねらえ!』・『ふしぎの海のナディア』・『らんま1/2』・『となりのトトロ』など知名度の高い作品に多く出演。また、1989年の『ピーターパンの冒険』では、レギュラーキャラクターでは初となる少年役を担当。この他にも年相応の役を増やすなど、役の幅を拡大させていった。

芸名は当初は一般的な日高だったが、姓名判断的に良くないことから声優の金丸淳一の提案により、異体字を用いて日髙とするようになった。

引用元:日髙のり子 - Wikipedia























2024年5月30日木曜日

火野正平 (二瓶康一)



5月30日は、俳優・歌手の火野正平(ひの しょうへい)の誕生日です。旧芸名は二瓶康一(にへい こういち)。

火野 正平(ひの しょうへい、1949年〈昭和24年〉5月30日 - )は、日本の俳優・歌手。東京都目黒区生まれ。シーズ・マネージメント所属。

東京で生まれ、中学・高校時代に大阪在住。 12歳のころから『劇団こまどり』に所属。

1962年にフジテレビの『少年探偵団』でデビュー。

1966年『わんぱく砦』に出演しファンレターが1日に山のように届くほどの人気を集めたが、人気はすぐに無くなり、この世界の厳しさを知ったという。また制作会社社長から「視聴率がアップしたらギャラを上げてやる」と約束されたが、実際には番組が好調で視聴率が上がれど、ギャラが一向に上がらないことに怒り、社長に直談判したが、逆に嫌味を言われてその社長を追い回した。同年には佐伯幸三監督、加山雄三主演映画『何処へ』で映画初出演を果たした。

1971年から、『おれは男だ!』、『刑事くん』などの端役、『太陽にほえろ!』などにゲストで出演した。

1973年、1965年度のNHKの大河ドラマ『太閤記』で緒形拳がブレイクしたことで、第二の緒形を作るべくNHKの指示で改名、池波正太郎が名付け親となり(「火のように力強く」から火野、池波正太郎の「正」から正平)、「火野正平」として大河ドラマ『国盗り物語』に羽柴秀吉役で出演、当たり役となり人気を集めた。同じ事務所の近藤正臣が『国盗り物語』で明智光秀を演じることが決まり、「サル(秀吉のあだ名)ならうちの事務所にも居ますよ」と事務所の人間がNHKの関係者に紹介し出演が決まった。

1974年、舛田利雄の監督作品映画『俺の血は他人の血』で8年振りとなる映画出演、初主演を果たした。

1977年『新・必殺仕置人』、1980年『服部半蔵・影の軍団』、1983年からの『長七郎江戸日記』、などの多くの時代劇や映画、2時間ドラマに出演した。

2011年からは日本全国を自転車で巡るNHK BSプレミアム『にっぽん縦断 こころ旅』で旅人を務め、その姿が中高年を中心に人気を集めている。

2019年、『釣りバカ日誌~新米社員 浜崎伝助~瀬戸内海で大漁! 結婚式大パニック編』にゲスト出演、以前から似ていると評判になり、隠し子説が囁かれることもあった濱田岳と初共演した。

引用元:火野正平 - Wikipedia

















2024年5月29日水曜日

金田朋子



5月29日は、声優・タレントの金田朋子(かねだ ともこ)の誕生日です。バラエティ番組などへの顔出し出演も多い。

金田 朋子(かねだ ともこ、1973年5月29日 - )は、日本の女性声優、ナレーター、タレント。神奈川県横浜市出身。アクロス エンタテインメント所属。

愛称は朋先生、朋ちゃん、金朋(かねとも)、だーさんなど。

地声は子供のような特徴のある声で、取材などでは声質について触れられることが多い。主に幼女、少女役を担当することが多い。

非常に笑い上戸で明るい性格。天然な性格と奇怪な言動に人気があり、バラエティ番組などへの顔出し出演も多いが、突拍子もない発言を繰り返し、後にそれらの言動は「金朋地獄」とも評されている(公式ブログのタイトルもこれに由来)。日本テレビの深夜バラエティ番組『ナカイの窓』では「ムダに明るい人達」の1人として登場した。

食べることが大好きであり、特に肉料理、スイーツ、寿司、ジャガイモ、酒などには目がない。寿司に至っては、1回で80貫はいけるという大食いで、寿司ネタはウニが大好物。また、思春期の頃はキュウリばかりよく食べていた。

好きな異性のタイプについて坂口憲二、織田裕二、ペ・ヨンジュンなどを挙げている。

テレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』について、子供の頃によく観ていたうえ、「ハイジに憧れて声優になった」と言うほど思い入れのある作品と語っている。

料理はあまり得意ではないが、「クロマニョン」なる創作料理が唯一の得意料理。炒めたネギやタコなどの具材に水で溶いた小麦粉を加えウインナーをあしらったもので、5段階の硬さがある。

かぶりもの好きで50点以上のコレクションがあり、自宅では常に身につけ家事などをこなし、外出時にもかぶる。トイレでは地蔵、キュウリを食べるときには河童、夜の生活のときにはマリリン・モンローと行動に応じてかぶりわけているとのこと。

30代の時、居酒屋での注文の際、運転免許証などの身分証明書を見せるまで、成人と信じてもらえないことがたびたびあったという。

番組などでは、147.7 cmという身長について、「母も祖母も自分より身長が低く、金田家では背が高い方」だという。さらに「母の方が声が高いため、母親とケンカをすると2人とも声が似ているから、言い争っているとどっちが喋っているか解らなくなる」「家族全員自分のような声で、家族みんなでヘリウムガスを吸っても変化が今ひとつ判らないので盛り上がりに欠けます」などと語っていた。

自分の担当したキャラクターの声の確認のために、ミキシングに立ち会うといった仕事熱心な面も見せている。

引用元:金田朋子 - Wikipedia















2024年5月28日火曜日

佐々木莉佳子 (アンジュルム)



5月28日は、ハロプロのアイドルグループ「アンジュルム」のメンバーの佐々木莉佳子(ささき りかこ)の誕生日です。2024年春ツアーをもってグループおよびハロー!プロジェクトを卒業する。

佐々木 莉佳子(ささき りかこ、2001年5月28日 - )は、日本のアイドル、歌手、女優、ファッションモデルで、ハロー!プロジェクトに所属する女性アイドルグループ・アンジュルム(旧・スマイレージ)のメンバー(3期)、『CanCam』の専属モデル。ローカルアイドルグループ・SCK GIRLSの元メンバー。公式ニックネームはりかこ。メンバーカラーはイエロー。

宮城県気仙沼市出身。血液型A型。身長166 cm。アップフロントプロモーション所属。

2018年楽天イーグルス「イーグルスガール」イメージキャラクター(応援大使)。

2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に被災し、自宅を津波で流され避難生活を余儀なくされる。 佐々木はショックで塞ぎ込むようになり、それを見かねた父親は、『SCK45(後に『SCK GIRLS』と改名)』というローカルアイドルグループが気仙沼で活動を開始すると聞き、佐々木本人には黙って同グループのメンバーオーディションに応募する。同年11月より、同グループのセンターとして活動。

2012年夏、モーニング娘。の追加メンバーオーディションを受けるも、落選する。またこの頃、“気仙沼のご当地アイドル”や“AKB48の前田敦子と大島優子を足して2で割ったような美少女”といった触れ込みで「魁!音楽番付 Eight」「ZIP!」「スター☆ドラフト会議」などの番組に取り上げられた。

2013年3月1日、正式にハロプロ研修生に加入。4月からは東京で母と姉の3人で暮らしている。

2014年、ローティーン向けファッション雑誌『ピチレモン』(学研パブリッシング)第22回ピチモオーディションで約10000人の中からグランプリを受賞した4名のうちの一人となり、7月号より専属モデルを務めた。同年10月4日、スマイレージ(後のアンジュルム)の3期メンバーに選出されたことが発表された。 専属モデルの方は務め先である『ピチレモン』の休刊に伴い2016年3月号から『Seventeen』(『集英社』)に移籍し、同誌の専属モデルを務めた。

2015年7月20日、1st写真集「RIKAKO」を発売。

2018年1月30日、東北楽天ゴールデンイーグルスを応援する女性「イーグルスガール」の2018年イメージキャラクターに、石田亜佑美(モーニング娘。)とともに起用されることが発表された。

2020年2月29日発売の『Seventeen』2020年4月号でSeventeenの専属モデルを卒業。

2020年5月28日、2nd写真集「莉佳子 - 少女、第二章 -」を発売。

2021年6月11日、ファッション雑誌『CanCam』(小学館)で8月号より専属モデルを務めることを発表。

2022年5月12日、病院で診察をしたところ「ウィルス性腸炎」と診断され、体調の問題より同日出演を予定していたインターネットサイン会を欠席することを発表。

2023年12月21日、2024年に予定されている春ツアーをもってグループおよびハロー!プロジェクトを卒業することが発表された。

引用元:佐々木莉佳子 - Wikipedia





















2024年5月27日月曜日

本田理沙



5月27日は、アイドル歌手・女優の本田理沙(ほんだ りさ)の誕生日です。1988年に歌手デビュー、現在は出身地の大分県を拠点に芸能活動(ママドル)や司会業を行っている。

本田 理沙(ほんだ りさ、1971年5月27日 - )は、日本の歌手、アイドル。本名:本田 こずえ。大分県中津市出身。PRISM所属。2010年8月27日より、大分からあげ大使(聖地中津からあげの会)を務めている。

堀越高等学校卒業。趣味はベリーダンス。

1986年夏、大塚製薬主催「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」に応募。福岡大会代表として全国大会に出場 。フロム・ファーストプロダクションからスカウトされ芸能界入り。

1988年7月、「Lesson2」でCBS/SONY RECORDSからレコード・デビュー。同期デビューは高岡早紀、田中律子、西田ひかる、藤谷美紀ら。テレビ朝日系で放送されていたテレビアニメ『おぼっちゃまくん』の第2期エンディングテーマとなった5thシングル「容赦なく愛して」は、同作品の原作者である小林よしのりの作詞。

女優としてテレビドラマ『花のあすか組!』(フジテレビ系)などに出演。また、グラマラスな肢体を活かしてグラビアアイドルとしても活動。西田からは「グラビアで人気があって“これぞアイドル”と思った」と評された。セミヌード写真集も多数発売、アイドルのイメージからの脱却を図った。1990年には『スーパーマリオクラブ』の司会を務め、1993年3月まで担当した。

1997年、結婚。芸能界を引退するが、のちに離婚。2002年に2度目の結婚をしたが、のちに離婚。2023年現在2児の母である。

2008年5月、週刊誌『FLASH』のグラビアにて復帰する。

2010年3月、父が急死。遺された高齢の母が独り暮らしを余儀なくされることを案じ、出身地の大分県中津市に帰郷。以降、大分を拠点に芸能活動(ママドル)や司会業を行っている。タレント育成スクール「TPET(ティペット)」の代表として大分のご当地アイドルの発掘なども行っている。

2010年8月27日、聖地中津からあげの会よりからあげ大使を任命された。

引用元:本田理沙 - Wikipedia





















2024年5月26日日曜日

黛ジュン



5月26日は、歌手・女優の黛ジュン(まゆずみ ジュン)の誕生日です。60年代後半を中心に歌手として活躍した。

黛 ジュン(まゆずみ ジュン、本名:渡邊 順子(わたなべ じゅんこ)、1948年5月26日 - )は、日本の歌手、女優。東京都調布市出身。
1960年代後半を中心に、独特のパンチの効いた魅力的な歌声でヒットを飛ばした。実兄は作曲家の三木たかし。

活動開始は古く、1956年、8歳から歌手活動を始めている。品川区立冨士見台中学校卒業後、本名で各地の米軍キャンプをジャズ歌手として巡った。

1964年に「渡辺順子」の名でデビューするもヒットせず、1967年に石原プロモーションへ移籍する。作曲家の黛敏郎のファンだったことと、パンチのある歌唱力から「黛ジュン」と改名し、東芝音楽工業(現:ユニバーサル ミュージック合同会社)から「恋のハレルヤ」で再デビュー。ミニスカートと共にパンチの効いた歌声で一気に注目を集める。グループサウンズのブームと同時代に活躍したこととサウンドから、中村晃子らとともに一人GSとも呼ばれた。「土曜の夜何かが起きる」ほかの曲は、一人GSの有名曲である。鈴木邦彦が、作曲を担当することが多かった。兄の三木たかしが作曲したヒット曲もある。

1968年にリリースされた「天使の誘惑」は更なる大ヒットとなり、その年の第10回日本レコード大賞に輝いた。1967年から1968年の2年間で、レコード売上が500万枚を記録。自身のヒット曲が主題歌となった映画にも出演。「天使の誘惑」「夕月」では主演に抜擢、売れっ子女優にもなった。また年末恒例のNHK紅白歌合戦では、1967年の第18回から1970年の第21回まで、4年連続で通算4回の出場を果たしている。

1970年2月1日を以って、橋幸夫が所属するワールド・プロへ移籍。同年にスタジオミュージシャンの江藤勲と婚約、結婚し一旦引退する。しかし、江藤の家庭内暴力などが原因で、1973年に離婚。その後本格的に芸能界へ復帰する。しかし以前のような人気は得られず低迷したため、1980年にはレコード会社をCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)へ移籍、「風の大地の子守唄」などを発表した。さらに、1983年には日活ロマンポルノ「女帝」にも出演する。1993年には久々の新曲「すべてがさよならになる」を発売。2005年には、1970年に東京サンケイホールで行われた『リサイタル'70』などがCD化された。

またドラマーの石田秀雄と2回目の結婚となるが、1994年に再び離婚。2001年、作詞家の里村龍一と婚約を発表し話題を集めたが、里村がその後知り合いのイタコに相談したところ、「二人の相性が最悪。5年後には歌を辞めるように」と告げられたことがきっかけで、里村から別れを切り出され、わずか2か月で婚約破棄される羽目になった。

その後も、舞台やディナーショーを中心に歌手として活躍していたが、2011年1月、約5年前に発症した原因不明の喉の病気で歌声が思うように出せなくなり、歌手活動休止を示唆するコメントを表明。同年2月には黛自らが作曲した「博多山笠女節」を長山洋子に提供し作曲家としてデビュー。しかしその後、喉アレルギーの原因が判明し治療を続けた結果、2012年に入ってからはほぼ完治。また自身が作曲した新曲も発売するなど、活動を本格的に再開した。

引用元:黛ジュン - Wikipedia























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