2025年5月31日土曜日

眞鍋かをり



5月31日は、女優・グラビアアイドル・マルチタレントの眞鍋かをり(まなべ かをり)の誕生日です。ブログ「眞鍋かをりのココだけの話」で所謂「ブログの女王」と呼ばれていた。2015年6月26日、ミュージシャンの吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)と結婚したことを発表。

眞鍋 かをり(まなべ かをり、1980年〈昭和55年〉5月31日 - )は、日本の俳優、グラビアアイドル、マルチタレント。オールラウンド所属。愛媛県西条市出身。西条市立西条小学校、西条市立西条北中学校、愛媛県立西条高等学校、横浜国立大学教育人間科学部(国際共生社会課程)卒業。本名(結婚前)同じ。夫はロックバンド「THE YELLOW MONKEY」ボーカル担当の吉井和哉。

横浜国立大学教育人間科学部(国際共生社会課程)に入学前に初めて1人で入った渋谷の吉野家を出たところをスカウトされ、芸能界入りした。

1999年雑誌「ホットドッグ・プレス」のドリームガールグランプリを受賞。

2000年東洋紡水着キャンペーンガールと日本テレビ主催の日テレジェニックに選出される。

2004年6月30日、ブログ「眞鍋かをりのココだけの話」を開設。あっけらかんとした日常生活の着眼点と発想の面白さ、自らを「オイラ」と称する独特の文体からたちまち人気ブログとなる。

7月12日付のブログ記事「なりきりTommy february6」においてTommy february6を意識した眼鏡美人姿を披露したことがきっかけで、トラックバック数日本記録を樹立するに至り、マスコミから「ブログの女王」の称号を受ける。

2011年5月31日よりlivedoor Blogにて「眞鍋かをり Official Blog」を開設。新ブログでは眞鍋の趣味である「一人海外旅行」を中心に日頃の何気ない日常を綴り、元祖ブログの女王のブログ再開ニュースは一躍ネットで話題になった。

2015年6月26日、ミュージシャンの吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)と結婚したことを自身のブログで発表した。また、妊娠しており、秋に出産予定であることも同時に報告している。

引用元:眞鍋かをり - Wikipedia

























2025年5月30日金曜日

唐橋充



5月30日は、俳優・イラストレーター・デザイナーの唐橋充(からはし みつる)の誕生日です。連続テレビドラマ初出演となったのが2003年の「仮面ライダー555」で海堂直也/スネークオルフェノク役である。

唐橋 充(からはし みつる、1977年5月30日 - )は、日本の俳優、イラストレーター、デザイナー。福島県出身。祖父は政治家で元喜多方市長の唐橋東、妻は女優の水野美紀。一児の父。 文教大学卒業後、23歳で早稲田大学演劇研究会の劇団「Cretan Crete」に所属し、舞台俳優として活動していた。

2003年、初のテレビ出演となる『仮面ライダー555』(以下“555”)で知名度を上げる。また、演技だけではなく、風貌に反して繊細かつポップな芸術的センスを様々な場所で発揮した。『555』テレビ版公式サイトのキャストによるコラムでは『カラハシンブン』と題したイラスト入り新聞を発表し、これが元でイラストや文章の上手さが広く知られるところとなった。

2007年9月30日、所属事務所DIMENTIONを退所。フリーでの活動となる。俳優業の傍ら、評判の良いイラスト・文筆などの創作活動も並行して行なっている。しばしば映像作品やアパレル商品などに採用されている。近年はイラストレーターとしての知名度が高まっており、『踊る!さんま御殿!!』出演時の本人談によれば、収入は俳優業を上回っているという。

引用元:唐橋充 - Wikipedia


















水野美紀と唐橋充



2025年5月29日木曜日

坂上味和



5月29日は、元女優の坂上味和(さかがみ みわ)の誕生日です。主に1977年から1986年まで活動した。1986年に俳優の三ツ木清隆と結婚したが、1991年に離婚した。

坂上 味和(さかがみ みわ、1961年5月29日 - )は、日本の元女優。東京都出身。

特技はピアノ、ギター。

父親は高等学校教員。

中学1年生の時に乃木坂駅の構内で、後に所属することになる事務所のマネジャーにスカウトされたことから芸能界入り。菓子、薬などのCMに時々出演していた。

1977年、港区立高陵中学校を卒業、テレビドラマ『うさぎ飛ぶ海』で16歳でデビューする。

1980年、東京都立南高等学校を卒業。

1981年、テレビドラマ『刑事犬カール2』に主演する。同年4月1日、歌手としてシングル「明日に向かって走れ」(「刑事犬カール2」の 主題歌)をリリースする。

1986年に俳優の三ツ木清隆と結婚したが、1991年に離婚した。

引用元:坂上味和 - Wikipedia

























2025年5月28日水曜日

黒木メイサ



5月28日は、女優・タレント・モデルの黒木メイサ(くろき めいさ)の誕生日です。沖縄県出身。

黒木 メイサ(くろき めいさ、1988年〈昭和63年〉5月28日 - )は、日本の俳優、タレント、モデル。沖縄県名護市出身。子:長女、ティア。長男、来夢。

10歳の時、黒木はジャネット・ジャクソンに憧れてダンスを始め、沖縄アクターズスクールに通った。

芸能界に入ったきっかけは、中学2年生の時、すぐ上の姉が東京から沖縄に来ていたスカウトの人に声をかけられ、姉が黒木本人が写っているプリクラを見せたところ「この子に会いたい」と興味を示して自宅まで訪れ、そのスカウトの人に会ったことだった。1年間は断っていたが、中学卒業時に芸能界入りと上京を決心。15歳で上京し、同じ事務所に所属する若手女優たちと寮生活を送る。その時の同寮生の一人が堀北真希であり、スカウトされて芸能界入りしたという共通点もあって、何でも話せる仲になったといい、黒木が下記の第1子出産をした時には堀北に報告のメールも送ったという。また、2人のマネージャーは同じ人物だった時もある。

2004年(平成16年)、女性ファッション雑誌『JJ』(光文社)にモデルとして出演するようになった。同年2月には、つかこうへい演出の舞台『熱海殺人事件・平壌から来た女刑事』に舞台初出演して主役を務めた。以降は女優として舞台、ドラマ、映画などに多数出演している。

2007年(平成19年)、第44回ゴールデン・アロー賞(2006年度)新人賞を受賞。翌2008年(平成20年)6月からは、女優に加えて歌手としての活動も始めている。

2012年(平成24年)2月9日、歌手の赤西仁と結婚したと、所属事務所を通じてファクスで発表した。発表当日のスクープ記事に対応する形で公式発表された。また『スポーツニッポン』等では黒木が妊娠2か月であると報じられていた。

2023年(令和5年)4月30日、同日を以って19年間所属したスウィートパワーを退所し、以後は海外を拠点に活動していくことを自身のTwitter(現:X)にて明らかにした。同年12月25日、赤西仁と離婚したことを自身のInstagramにて公表した。

引用元:黒木メイサ - Wikipedia

























2025年5月27日火曜日

長谷川町子 (漫画家)



5月27日は、漫画家の長谷川町子(はせがわ まちこ)の命日です。「サザエさん」や「いじわるばあさん」などアニメ化やドラマ化され国民的人気となった代表作がある。1992年5月27日、死去。享年73(満72歳没)。

長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。日本初の女性プロ漫画家。代表作に『サザエさん』・『いじわるばあさん』・『エプロンおばさん』など。

「(原作者の)田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部』1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された。田河夫妻に子供がなかったことから、内弟子として田河家で生活するが、ホームシックになり11カ月で出戻る。

1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で漫画家としての地位を確立。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載)。

1946年(昭和21年)4月22日、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画の依頼が舞い込み引き受けた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩をして海辺の風景を眺めているときに登場人物に海にちなんだ名前をつけて『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた。磯野家の日常を描いた『サザエさん』は、彼女のファッションも話題となり、人気を博した。当初、本人は「アルバイト感覚で引き受けた」と語っている。

1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移すと、磯野家も東京を舞台として描くようになる。

「ヒューマニズムに飽きていた」町子は、1966年からブラックユーモア路線の『いじわるばあさん』の連載を開始する。善良なキャラクターの作品と違い、『いじわるばあさん』は自分の地のままでいいから気楽に描けるという。主人公のおばあさんは、町子自身の性格をモデルにしたとの説もある。

1974年2月22日付で『サザエさん』を3年間の休載とするが、その後再開される事は無かった。

1978年、『サザエさんうちあけ話』を朝日新聞日曜版に連載。翌1979年には単行本として姉妹社から出版されるとともに、これを原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送された。姉を熊谷真美、町子を田中裕子が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。

1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画は描かない」と答えている。それでもエッセイ風の漫画をときおり発表することもあり1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。

1992年(平成4年)5月27日、死去。享年73(満72歳没)。当時の報道では「自宅の高窓を閉めようとして机から落ち全身を打撲、打撲の痛みで体調を崩し、通院治療を受けていた。徐々にろれつが回らなくなり、食欲がなくなるなど衰弱した末、死去の前日にはほとんど食事をとらず、翌朝までに息を引き取っていた」という。『長谷川町子思い出記念館』の年表によれば死因は冠動脈硬化症による心不全。

訃報は1カ月後の6月末に朝日新聞社とフジテレビの両社から公表された。

引用元:長谷川町子 - Wikipedia



















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