2024年7月31日水曜日

前野曜子 (元 ペドロ&カプリシャス 初代ボーカル)



7月31日は、歌手の前野曜子(まえの ようこ)の命日です。音楽バンド「ペドロ&カプリシャス」の初代ボーカリストとしても知られる。1988年7月31日没。40歳。

前野 曜子(まえの ようこ、1948年〈昭和23年〉1月25日 - 1988年〈昭和63年〉7月31日)は、日本の歌手。ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカル。宝塚歌劇団在籍中の芸名は弓 千晶(ゆみ ちあき)、その後の初期芸名は西丘 有理(にしおか あり)。1980年前後の時期、俳優として劇場用映画・テレビ映画に出演した。

1967年(昭和42年)、第53期生として宝塚歌劇団へ入団、同年の星組公演『世界はひとつ』が初舞台公演の演目であった。同期は54名、室町あかねや小松美保がおり、前野の当時の芸名は弓 千晶。1968年(昭和43年)10月30日付で同劇団を退団した。

宝塚時代に知り合った亀渕友香とディスコ「赤坂ムゲン」で再会して上野義美がプロデュースしていたリッキー&960ポンドに参加、翌1969年(昭和44年)、「ワッハッハ」(CBSソニー)がヒットを記録する。この頃は西丘 有里と名乗る。1971年(昭和46年)、同グループと同じ事務所(小学館プロダクション)に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加、同年10月発売の「別れの朝」が大ヒットを記録する。同作の原曲はウド・ユルゲンスの「夕映えのふたり」(ドイツ語: Was ich dir sagen will, 1967年)である。

1972年(昭和47年)9月、「ペドロの前野曜子が倒れた」と報道される。1973年(昭和48年)、ペドロ&カプリシャスを脱退し渡米、半年弱の滞在後帰国し、本村俊雄をリーダーとするバンド”マスカレード"にて歌手活動を再開後、1976年(昭和51年)に古巣のリッキー&960ポンドに復帰する。1977年(昭和52年)9月、リッキー&960ポンドとアルバム『ABRAZAME』を録音。「別れの朝」は3ヴァージョンが存在するが、このアルバムに収録されたものが最高の出来との評価もある。同グループに3年間所属した後、再び脱退する。

1979年(昭和54年)に映画『蘇える金狼』の主題歌『蘇える金狼のテーマ』をリリース。このとき「あの前野曜子が6年ぶりにカムバック!!」と報道されたが、カプリシャス脱退以降の経歴が考慮されていない。1980年(昭和55年)、映画『野獣死すべし』に出演。1980年代初期には自己のバンド"ASANTE-SANA"を組みリサイタルも行った。1982年(昭和57年)から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌う。同時期、都内の病院に入院し闘病を開始したとされる。

次第にアルコール依存症等が深刻化し、1988年(昭和63年)7月31日、心不全で死去した。満40歳没。訃報についてはリアルタイムに報道されることなく、3年後に『女性自身』1991年4月23日号が初めて報じた。

引用元:前野曜子 - Wikipedia























2024年7月30日火曜日

志村香



7月30日は、元女優・元アイドル歌手の志村香(しむら かおり)の誕生日です。1985年から1988年まで活動、所属事務所との契約が満了したことを機に引退。

志村 香(しむら かおり、本名:同じ、1969年7月30日 - )は、1980年代後半に活動した女優、歌手。東京都墨田区出身。所属事務所は芸映プロダクション。堀越高等学校卒業。血液型はB型。レコード会社は日本コロムビア。

1969年7月30日、東京都墨田区の病院で三姉弟の長女として誕生する。中学3年生だった1984年9月、映画『パンツの穴』2作目のオーディションに応募。同年12月9日に西武百貨店池袋本店イベントスペースで行われた最終オーディションにおいて58,117名の中から選ばれヒロインの座を射止めた。

翌1985年4月公開の映画『パンツの穴 花柄畑でインプット』で主役デビューを果たすと共に、4月21日には「曇り、のち晴れ」でアイドル歌手デビューも果たす(この曲は後に酒井法子がオーディションの際に歌い、また楽曲を提供した尾崎亜美は1986年にセルフカバーアルバム『POINTS-2』の1曲目に同曲を収録している)。

当初のプロモーションはアイドル雑誌との連携など、前年デビューで系列事務所の菊池桃子を踏襲した展開で行われた。アイドル雑誌のグラビアや国内2輪ロードレースのイベントなどにゲスト出演することもあった。しかし、アイドル歌手としても女優としてもヒット作には恵まれず、所属事務所との契約が満了したことを機に引退に至った。

引用元:志村香 - Wikipedia























2024年7月29日月曜日

秋吉久美子



7月29日は、女優の秋吉久美子(あきよし くみこ)の誕生日です。

秋吉 久美子(あきよし くみこ、1954年〈昭和29年〉7月29日 - )は、日本の女優。本名は、小野寺 久美子(おのでら くみこ)。静岡県富士宮市生まれ、福島県いわき市出身。

高校3年生だった1972年、受験勉強中に聴いたラジオの深夜放送・吉田拓郎の『パックインミュージック』で、吉田が音楽を担当した松竹映画『旅の重さ』のヒロイン募集を聞き、親に内緒でオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけである。

『旅の重さ』の主役オーディションでは主役に決りかけていたが、遅れて来た高橋洋子に主役を取られ、自殺する文学少女に扮して本名で映画初出演した。

芸名を「秋吉久美子」として松本俊夫監督の『十六歳の戦争』に主演して本格的に映画デビューした。しかしこの作品は難解だという理由で1976年まで公開されなかった。1974年、藤田敏八監督の青春映画『赤ちょうちん』で、奇妙な魅力をたたえた女優などと評価されヒットし、名が浸透する。続けて秋吉主演で『妹』、『バージンブルース』(日活)と立て続けに製作され、人気が急上昇した。「クミコ、君を乗せるのだから…」とナレーションが入る日産チェリーF-IICMでは可愛らしさで世の男をノックアウトさせ、愛くるしい表情、70年代を表現する繊細な存在感、今までの日本の青春映画を脱却した大胆な脱ぎっぷりで、桃井かおりとともに、当時のシラケ世代の寵児となる。

結婚を経てかつてのフーテン、ツッパリ、シラケ、ナマイキイメージもとれて、美しさに磨きがかかり、80年代の新しい母親像なども好演し、桃井と違い、茶目っ気もあって明るくスタッフ受けもよく、また裸も綺麗で脱げることから、いい役にキャスティングされるようになった。

近年はバラエティにもゲスト出演している。TBS系人気番組『クイズダービー』にもゲスト解答者としても数多く出演した。しかも1988年10月の特番で、当時産休中だった竹下景子に代わり、4枠に座っていた。ちなみに成績は12勝20敗、3割7分5厘と好成績を修めていた。

2006年8月12日、第38回NHK『思い出のメロディー』で司会に初挑戦した。会見で「あのころは"痛がる時代"だったと思う」と独自の理論を披露した。

引用元:秋吉久美子 - Wikipedia





















2024年7月28日日曜日

永島暎子



7月28日は、女優の永島暎子(ながしま えいこ)の誕生日です。1976年に「四畳半青春硝子張り」のヒロインに抜擢されて映画デビュー。

永島 暎子(ながしま えいこ、1955年7月28日 - )は、日本の女優。熊本県下益城郡出身。フリーランス。

熊本県立八代東高等学校を卒業後、東北地方でのこけし制作や北海道での牧場労働を経験。

1976年、日活テレビ映画芸術学院(現・日活芸術学院)へ入学。同年、『四畳半青春硝子張り』のヒロインに抜擢されて映画デビュー。

1977年、日活ロマンポルノ『女教師』でエランドール賞新人賞を受賞した。

1983年、『竜二』の演技で国内の各種助演女優賞を総なめにした。

引用元:永島暎子 - Wikipedia

















2024年7月27日土曜日

寺田恵子 (SHOW-YA)



7月27日は、ミュージシャン・シンガーソングライターの寺田恵子(てらだ けいこ)の誕生日です。ガールズハードロック・ヘヴィメタルバンド「SHOW-YA」のリードボーカリストとして最も有名。

寺田 恵子(てらだ けいこ、1963年〈昭和38年〉7月27日 - )は、日本のミュージシャン、シンガーソングライター。

ロックバンドSHOW-YAのボーカル。千葉県船橋市出身。

影響を受けた歌手はカルメン・マキ、アン・ルイス。小学生の頃、カルメン・マキ&OZの「私は風」を聴いて自分と声が似ていることに感動し、漠然と歌の仕事がしたいと思うようになったという。

高校生の頃までは声の高さはソプラノで、高校時代の先生にはその声の高さから合唱部入りを勧められたこともあったが、カルメン・マキへの憧れから、枕を喉に当てながらシャウトしたりして声を潰していったという。

高校1年生の時、文化祭でボーカルを探していた男性バンドに誘われ、「カルメン・マキしか歌わないよ」としながらも加入、最初はこの男性主体の7人組バンドで活動。その後、このバンドが練習拠点としていたスタジオの店長に、女子大生バンド「メデューサ」(SHOW-YAの前身バンド)に加入してはどうかと話を持ち掛けられるが、最初は女バンドでは出来ないと思い、女バンドが嫌いだったとも思っていたことから3回断っていたが、メデューサのメンバーの一人が偶然アルバイト先の友人であったことがきっかけで加入を決める。

胸には薔薇の入れ墨(シール)があるのが特徴。カルメン・マキのルーツがジャニス・ジョプリンであると知ってジャニスも好きになり、ジャニスをモデルとした映画『ローズ』にも惹かれて薔薇好きになったことからだという。

脱退直後は「音楽を聴くのも嫌になった」ことから、実家で家事手伝いをしていた他、普通に就職することも考えていたという。ある日、友達と一緒にカラオケに行った時、友達にSHOW-YAの曲「限界LOVERS」を選曲され、本人曰く「無理矢理歌わされた」が、これを歌った時に急に涙が出てきて、「やっぱり私は歌(SHOW-YA)が好きだ」と再認識したという。そして寺田は元メンバーひとりひとりに頭を下げ、5年かけて説得し続けた末、SHOW-YA再結成に至った。

引用元:寺田恵子 - Wikipedia


















SHOW-YA - Wikipedia



2024年7月26日金曜日

守谷香 (守谷佳央理・WANKU)



7月26日は、歌手の守谷香(もりたに かおり)の誕生日です。1986年「アイドルを探せ」で映画デビュー、1987年5月27日にデビュー曲「予告編」をリリース。

守谷 香(もりたに かおり、1969年〈昭和44年〉7月26日 - )は、愛知県犬山市出身の歌手。

南山高等学校女子部中退後、1986年、松竹「ミス・レインボー」25,000人の中からグランプリ受賞にてデビュー、映画『アイドルを探せ』でデビューした。アイドルとして活動。1987年5月27日にデビュー曲「予告編」をリリースし、6月18日放送の『ザ・ベストテン』で初登場10位にランクイン。中学生時代に新体操をしており、ザ・ベストテン初登場時にボールの演技を披露した。本人曰く、身体が固く新体操部のガンと言われていたとのこと。

「守谷佳央理」(読み方同じ)、「守純かほり」(もりずみ かおり)と改名する。

1989年10月29日、「守谷佳央理」として、宮崎県高鍋町で行われたFM宮崎の公開録音にゲスト出演。ミニコンサートを行う。

1993年、オフィーリア役で出演したロックオペラ「ハムレット」にてTOSHIと出会う。

1997年2月14日にTOSHIと結婚する。芸能界からは一時引退しTOSHIの個人事務所を経営していた。2008年、株式会社ホームオブハートの関連のレーベル会社「HEALING WORLD」より「守谷香 -WANKU-」名義で歌手活動を再開。事務所の経営の傍ら歌手活動も行っていた。

2010年2月2日、TOSHI(のちにToshlと改名。読み方は同じ)との離婚が成立した。

現在(2022年時点)では、株式会社コンフォートの代表取締役社長を務めている傍ら、MARTH(MASAYA)とともにヒーリングの音楽やアニメーション制作の活動をしている。音楽とアニメーションに関してもOfficial Blog(2022年2月2日に再開)やInstagramで投稿をしている。

引用元:守谷香 - Wikipedia





















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