2024年11月30日土曜日

宮﨑あおい (宮崎あおい)



11月30日は、女優の宮﨑あおい(みやざき あおい)の誕生日です。旧芸名は宮崎あおい。

宮﨑 あおい(みやざき あおい、1985年 〈昭和60年〉11月30日 - )は、日本の女優。旧芸名、宮崎 あおい。

東京都出身。ヒラタインターナショナル所属。実兄は元俳優の宮﨑将。夫は元V6のメンバーで俳優の岡田准一。

4歳の時、母親の「思い出に残るように」という理由で子役デビュー。CM(サントリー「緑水」、旭化成など)や雑誌を中心に活動した。ドラマや映画にも出演していたが、名前の付かないような脇役が多かった。

役名をもらい、本格的に女優業を始めたのは1997年 - 1999年頃から。映画デビューは大林宣彦監督作品『あの、夏の日 / とんでろ、じいちゃん』(1999年)で、その後、ピチレモンのモデル(ピチモ)として毎月レギュラーで登場して人気を得た。2001年、映画初主演の『害虫』で、第23回ナント三大陸映画祭コンペティション部門主演女優賞を受賞(映画公開は2002年)。2002年には、『EUREKA』で第16回高崎映画祭最優秀新人女優賞を受賞した。またこの年は、BS-i『ケータイ刑事 銭形愛』で連続テレビドラマに初主演した。2003年、初舞台で主演をつとめたミュージカル『星の王子さま』(演出:白井晃)で、第41回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。同年、アニメ『魔法遣いに大切なこと』で声優初挑戦。その後も、アニメの映画やドラマ、ドキュメンタリーのナレーションなど、声に関わる仕事もしている。

2005年、中島美嘉とダブル主演を務めた『NANA-ナナ-』が、2005年度実写邦画観客動員数第2位、興行収入40億円の大ヒットとなりブレイクのきっかけとなった。

2006年、NHKの連続テレビ小説『純情きらり』ではヒロイン・有森桜子役を演じ、同作で第44回ゴールデン・アロー賞放送賞(ドラマ部門)を受賞した。

2008年、NHK大河ドラマ『篤姫』で、主人公の篤姫を演じる。放送開始時の年齢22歳1か月は、大河ドラマの主演としては歴代最年少である。

2012年、フジテレビ(関西テレビ制作)『ゴーイング マイ ホーム』で10年ぶりに民放の連続ドラマに出演。

2015年秋から2016年春まで、『純情きらり』以来の2度目の出演となるNHK連続テレビ小説『あさが来た』で、主演の波瑠とのダブルヒロインとなる姉・はつ役を演じる。

2018年の第1子出産に伴う産休を経て、2019年10月公開の『真実』で洋画吹き替えに初挑戦、2020年1月放送のTBS『あしたの家族』にて女優業に復帰した。

引用元:宮﨑あおい - Wikipedia



























2024年11月29日金曜日

小川宏 (フリーアナウンサー)



11月29日は、フリーアナウンサー・司会者の小川宏(おがわ ひろし)の命日です。NHKを退社後、フジテレビと専属契約、「小川宏ショー」で一世を風靡した。後にフリーアナウンサーとして活動。2016年11月29日、多臓器不全により90歳で亡くなった。

小川 宏(おがわ ひろし、1926年〈大正15年〉4月17日 - 2016年〈平成28年〉11月29日)は、日本のフリーアナウンサー・司会者。元NHKアナウンサー。東京都墨田区出身。

NHKには二次募集で1949年に入局した。同期には八木治郎、大塚利兵衛、福島幸雄、穂坂俊明がいる。鶴岡放送局、郡山放送局(現在はいずれも支局)に勤務後、1952年より東京勤務となる。

1955年より『ジェスチャー』の4代目司会者として10年にわたって活躍。同番組における圧倒的な知名度を背景に1965年1月にNHKを退職。

退職後、フジテレビと専属契約を結び、1965年より『小川宏ショー』の総合司会を通算17年務め、4451回という金字塔を打ち立て、「人名を冠した番組の最長寿記録」としてギネスブックから認定・掲載された(後に『森田一義アワー 笑っていいとも!』総合司会のタモリがこの記録を塗り替えている)。

穏やかな雰囲気や話術は主婦層にも長く支持され、この点から「春の小川」なる異名を取るようになった(黒柳徹子の発言に端を発するとされる)。同番組には朝の生放送番組であるにもかかわらず、上記の黒柳をはじめ、杉村春子、高峰三枝子、石原裕次郎、長嶋茂雄、前田武彦、永六輔などの大物ゲストが多数出演しており、これも小川の司会ぶりに対する信頼の高さを裏付けるものとなった。

『小川宏ショー』終了後、うつ病を発症し自ら克服、その体験談を出版し、後にその経験を元に講演活動を行うなど活躍している。

NHK時代には先輩アナウンサーからは「小川ちゃん」と呼ばれ、可愛がられた。

また、NHKの7年先輩で、日本のフリーアナウンサーの先駆的な存在である高橋圭三からは「顕微鏡で調べて望遠鏡で放送しろ」とアドバイスされたという。

2016年11月29日、東京都内の病院で多臓器不全により90歳で逝去。

引用元:小川宏 - Wikipedia












小川宏ショー - Wikipedia



2024年11月28日木曜日

里見浩太朗 (里見浩太郎)



11月28日は、俳優・歌手の里見浩太朗(さとみ こうたろう)の誕生日です。「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎役や水戸光圀役、「長七郎天下ご免!」「長七郎江戸日記」の松平長七郎役などの時代劇スターとしての活動の他、現代劇でも活動する。歌手としても活動する。

里見 浩太朗(さとみ こうたろう、1936年11月28日 - )は、日本の俳優・歌手。

旧芸名は鏡 小五郎・富士川 一夫・里見 浩太郎・風間 太郎を経て、1970年より今の芸名とする。本名は佐野 邦俊(さの くにとし)。東京市渋谷区道玄坂出身、静岡県富士宮市育ち。自らが社長を務める株式会社 里見プロモーション所属。

1956年、第3期東映ニューフェイスに合格し、何事も経験が必要だと云われ東映へ入社。

大当たりした東映の映画『里見八犬伝』が縁起がいいと「里見」を、「富士山の悠々たる姿を見て浩然の気を養う」という意味から「浩」、時代劇らしく「太郎」と合わせ、里見浩太郎(1970年に現名に改名)という芸名をつけてもらう。

1970年には芸名を「里見浩太郎」から「里見浩太朗」に改名。時代劇のみならず、刑事ドラマやアクションドラマにも出演した。

1971年5月、ナショナル劇場『水戸黄門 第3部』(TBS / C.A.L)(放送は同年11月29日)で杉良太郎に代わり2代目佐々木助三郎に就任。1982年7月8日の初代水戸光圀役・東野英治郎の降板発表を受け自身も降板を考えたが逸見稔の強い希望で残留する。1987年11月26日の第17部収録終了(最終話は1988年2月22日に放送)をもって降板。足かけ16年半、457回にわたる活躍だった。

1974年、『大江戸捜査網』にて久々に主演を務め、以降『長七郎天下ご免!』、『松平右近事件帳』、『長七郎江戸日記』など幾多のテレビ時代劇作品で主演を務め、時代劇俳優の地位を不動のものとする。主演作品では主題歌も数多く担当している。1985年から93年にかけて、年末に放送されていた日本テレビ系列の『年末時代劇スペシャル』では、最多の6度主演している。

2002年10月14日より放送開始したナショナル劇場『水戸黄門 第31部』で、病気降板した石坂浩二に代わる5代目水戸光圀役として14年ぶりに復帰。

『大江戸捜査網』以降テレビ時代劇では、長年にわたり勧善懲悪作品の主演を専らとしてきたが、1993年の『炎立つ』への出演を皮切りにNHK大河ドラマにも出演するようになった。

現代劇でも新しい役柄に扮し、23年ぶりに映画出演した初の松竹作品『およう』(2002年)では洋画家藤島武二を演じた。なおテレビドラマでは、刑事部長・警察署長(テレビ東京系『信濃のコロンボ』シリーズ他)などの役柄が多く、京都で一日署長を務めたこともある。主演シリーズの終了後から、俳優としてのスタンスも徐々に「存在感のある脇役」へとシフトし、 2012年のドラマ「リーガル・ハイ」の服部役では、当時の小学生世代にまで知名度を広げる。

引用元:里見浩太朗 - Wikipedia

























2024年11月27日水曜日

江川有未 (平井有未)



11月27日は、元アイドル・タレント・女優の江川有未(えがわ ゆみ)の誕生日です。2004年に「仮面ライダー剣」でヒロイン・広瀬栞を演じ、2007年1月13日、アメリカザリガニの平井善之と結婚したが、2016年に離婚している。

江川 有未(えがわ ゆみ、1981年11月27日 - )は、北海道出身の元アイドル、元タレント、元女優。本名同じ。愛称は「ゆみち」。身長163cm、体重47kg、B88・W60・H88。

1996年から2006年まで芸能事務所フォスターに所属していた。その後一時引退したが、アメリカザリガニの平井善之の妻としてメディア出演を行っていた。2016年からTOPGEARに所属して芸能界に復帰するも離婚後は再び引退状態にある。

中学生(15歳)のときに地元の北海道でスカウトされて上京し高校1年生でデビュー。以来ドラマ、バラエティ、雑誌、写真集、CMなどで活躍していた。北海道札幌丘珠高等学校から日出女子学園高等学校に転入し卒業。

元読売ジャイアンツ投手で現在スポーツキャスター、プロ野球評論家の江川卓の祖父と彼女の曽祖父は兄弟で、卓の遠縁(7親等)にあたる。しかしタレント活動を始めるまでは本人曰く、お互いに会った事がなかったとのこと。

2001年、バラエティ番組「人気者でいこう!」発のアイドルグループ・BONITAの一員となる。翌年2002年に同グループは解散。

2004年には特撮テレビドラマ『仮面ライダー剣』でヒロイン・広瀬栞を演じる。同年11月3日発売のアルバム『仮面ライダー剣 SONG COLLECTION』(avex mode/AVCA-22120)では、本人歌唱によるキャラクターソング「キミのとなりで」が収録されている。

2006年7月6日に所属事務所のHP上で、一身上の都合による芸能界引退を表明し、7月末をもって芸能界を引退。

2007年1月13日、アメリカザリガニの平井善之と結婚。お互いを『モンスターハンター』のハンドルネームで呼び合っていた。当初は別段仲の良い方では無かったが、ある時、平井が『北斗の拳』の登場人物サウザーについて語ったところ意気投合する(ABCラジオ『アメザリのスレッドキングABC』)。

引退後は平井有未名義で「ファミ通WAVE」DVDにアメザリ平井の嫁こと「嫁ザリ」の愛称でも出演している。2011年5月号(最終刊)では「魔界むらっ」コーナーに出演し、最初にして最後の1面クリアを成し遂げ、滝を獲得した。

2016年2月16日、平井有未名義でTOPGEARに所属して芸能界に復帰するが、同年末離婚を申し出てその1か月後に離婚。平井によると、別居以降は芸能関係の仕事はしていないとしている。

引用元:江川有未 - Wikipedia






仮面ライダー剣 - Wikipedia









2024年11月26日火曜日

チバユウスケ (THEE MICHELLE GUN ELEPHANT・ROSSO・The Birthday)



11月26日は、1991年から2003年まで「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」、2001年から2006年まで「ROSSO」、2006年から「The Birthday」でギター・ボーカルを担当していた、ミュージシャンのチバユウスケの命日です。2023年4月24日、食道がんと診断され治療に専念するため休養に入っていたが、同年11月26日に55歳で死去した。

チバ ユウスケ(1968年7月10日 - 2023年11月26日)は、日本のミュージシャン、ボーカリスト、作詞家、作曲家。1991年から2003年までTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT、2006年から2023年までThe Birthdayのボーカルとして活動した。血液型A型。既婚。

1988年、1年遅れで明治学院大学経済学部商学科に入学。学内のサークル「ソング・ライツ」に加入しTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTを結成。それまでは一度もライブに出た経験がなかった。バンドメイトとして現在まで共に活動していくことになるクハラカズユキらともこの頃に出会っている(大学時代に留年を経験しており、その時に本来1年後輩であるクハラと同級生になった)。卒業後も活動を継続し、1996年にメジャー・デビューを果たす。

2000年に解散したBLANKEY JET CITYの照井利幸と共に、2001年にROSSOを結成。当時としては期間限定バンドとしての意味合いが強く、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTでの活動を主としていたため一旦活動を休止させるが、以降も照井との交流は絶えず続き、2003年初頭に照井のソロプロジェクトであるRAVENのアルバム『限りなく赤に近い黒』にゲストとして参加。同年9月1日、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの解散を発表し、10月11日に幕張メッセでのライブを以って解散。

解散後、新たにイマイアキノブ、佐藤稔を迎えた形でROSSOの活動を再開。その後も長らくROSSOでの活動が続くが、THE MIDWEST VIKINGSやMidnight Bankrobbersなど新たなグループを次々結成し、また様々なバンド・グループにゲスト参加するといった、ROSSO以外での活動も目立った。2006年6月、ROSSOは再び活動を休止。

ROSSOの活動休止直後、元THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのクハラカズユキらと共にThe Birthdayを結成。2009年7月22日にTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのメンバーとして活動を共にしたアベフトシが急逝。7月25日に出演したフジロックフェスティバルでのライブの冒頭で「今日のライブは、俺達の大親友だったアベフトシに捧げます。」と述べた。

2012年9月1日に公開の映画『I'M FLASH!』の劇中歌を、チバ、中村達也、KenKen、ヤマジカズヒデと共にバンド、I'M FLASH! BANDを結成し担当。同名の曲「I'M FLASH」はシーナ&ザ・ロケッツ(鮎川誠)の楽曲でありカバー。また初のソロ・プロジェクト、SNAKE ON THE BEACHを始動させ、同年10月にアルバム『SNAKE ON THE BEACH』をリリース。同時進行としてこのアルバムから生まれた映画『赤い季節』が公開。劇場ではチバ、中村達也、イマイアキノブによる「THE GOLDEN WET FINGERS」が出演。映画の為の結成であったが、2013年には全国ツアーを敢行。

2023年4月24日、食道がんと診断され治療に専念するため休養に入ることを発表。闘病中は関係者と連絡を取り合い、復帰後の活動について前向きに考え、周囲には「絶対に復帰する」と力強い言葉を伝えていたが、同年11月26日に55歳で死去。忌日は、The Birthdayが2023年秋に予定していたツアーのファイナル、Zepp DiverCityでの公演予定日だった。訃報は同年12月5日に公表された。

引用元:チバユウスケ - Wikipedia



















2024年11月25日月曜日

ディエゴ・マラドーナ



11月25日は、アルゼンチン出身のサッカー選手・サッカー指導者のディエゴ・マラドーナ(Diego Maradona)の命日です。2020年11月3日に硬膜下血腫の緊急手術を受け、無事成功したが、退院後の11月25日、心不全のためブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。60歳没。

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ・フランコ(Diego Armando Maradona Franco, 1960年10月30日 - 2020年11月25日)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ラヌース出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダーまたはフォワード。身長165cm、体重69kg。

1976年にアルゼンチン・リーグにおいて史上最年少でプロデビューを果たし、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回に貢献した立役者となる。アルゼンチン代表においても1977年に歴代最年少(16歳)で出場、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権を優勝、FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986年大会ではチームを牽引して優勝に導き、大会MVPに選出された。同大会の準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは、マラドーナを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。このような実績からペレと並んで史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている。

現役引退後は監督として複数のクラブを歴任、2008年にはアルゼンチン代表監督に就任。2010年大会では南米予選を突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、同大会終了後の2010年7月に解任された。2020年11月25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。

選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後も入退院を繰り返したが、引退から時間が経った現在でもマラドーナの信奉者は多くアルゼンチンではマラドーナのことを「神の子」と崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街にマラドーナを讃える祭壇が設けられているなど、高い人気を誇っている。

引用元:ディエゴ・マラドーナ - Wikipedia


















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